新刊案内 これから出る本 電子出版 お知らせ 書店様へ リンク 大学教科書 会社案内
商品詳細
ジャンル: 専門書・研究書 語学
統辞理論の周辺
統辞理論の周辺
渡瀬嘉朗
判型: 四六判/上製
ページ数: 322頁
定価: 4,536円(本体:4,200円+税)
ISBN: 978-4-384-03305-2 C3080
発行日: 2012/03/10
ご購入は各オンラインショップをご利用下さい
オンライン書店で購入
Amazon honto
紀伊國屋書店 セブンネットショッピング
楽天Books TSUTAYA online
閉じる
著者が33年間にわたって東京外国語大学の紀要に発表した論文を収録。
目次より:
第1章 話者の選択と発話の形成
第2章 「核」主導型の統辞機能について
第3章 「核」主導型の統辞機能(その2)
    —「が」再考—
第4章 定冠詞と「自己」照応形式
第5章 「未完了」特性について
第6章 「代名態」の役割
第7章 表意対立とその中和
第8章 事態の参加者
第9章 統辞的切り取り
第10章 Latence,あるいは《潜在性》
    ―とりわけ潜在的統辞特性をめぐって―
第11章 ActuelとInactuel
    ―「現在」と「半過去」,「大過去」―
第12章 統辞行動の中の《態》
    ―拡大再帰形式の解釈をめぐって―
第13章 時制の理論のために
    ―文意の分析と時制の対立―


序   章
1.
 幽かな記憶によれば,私は少年時代の末期,ドイツの詩人,リルケを愛読したようだ。彼の『マルテの手記』に関しては,造本の記憶や,父の筆跡の筆の字にいろいろ思い出がある。
 第一回の渡欧の際,残念ながら図書の整理の方法を誤り当時の蔵書は散逸してしまったが,マルテと共に古い石畳を歩き,人間は孤独の中に,新しい自分を発見するのだと強く感じた自分を,私は永久に忘れない。
 少年時代リルケを愛読した人間が青年時代,P.ヴァレリーに魅かれたのは,とりわけ,彼の「精神の危機」の文字に強く動かされたからである。当時の私は,「精神」をこうして真正面から取り上げる人が居ようとは思っても見なかった。私は彼を通じて精神を,経済や政治体制と同様,一つの生きた実体として捉えることが出来たのである。
 しかし程なくして私は,詩でも哲学でもない,言語そのものに強い関心を抱くようになる。勿論,言語に対する私の関心は,詩や哲学や,人間の精神を背後から支える言語の仕組みに強く動かされている。
 しかし,私は〈言語と精神〉とか〈言語と哲学〉といった,マクロな視点からではなく,言語に具わる,個々の仕組みを何時も言語の内部から,眺めるようにして来た。マクロな問題設定には,容易に,言語の側からの必要な資料が伴わないし,揃わない。代わりに,言語にそなわる小さな仕組みを一つ一つ眺めることで,その部分を様々に利用する人間の概念世界の仕組みが見えてくる筈だ。
 勿論,言語の仕組みが,概念の仕組みをすべて解き明かすわけではないが,人間の概念世界の基本的な仕組みは言語に足を下ろし,そこから少なくとも,建築構造に具わる力を得ている筈である。
 ことばが人間の精神活動を支えることが出来るのは,まず言語を構成している交換可能な要素が人間に大きな選択の幅を与え,それが,多様な思考の歩みを過不足なくなぞることが出来るからであろう。ここから見えて来るのは,とりわけ言語の柔軟な構造である。
 表現形式を求める人間にことばは即座に答えを与えるが,それのみではない。言語はその答えに満足しない人間の,多様な注文にも余裕を以って応えられるだけの大きな潜在的な力を持っている。人間の直感的な思念の塊を,こうして言語は解きほぐし,線条的な情報要素のつらなりに変える。いわば人間が必要とするだけの,―人間の力で包摂できる範囲の,―情報要素のつらなりに変えるのである。人間が単純な思念を複雑な構造に組み替え,その過程でそれまではっきりと見えなかった部分を丹念に解きほぐすことが出来るのは,言語により,利用できる切片が様々に可能な選択の形で準備されているからである。
 “言語”はしばしば人間にとって,安定した,大きな“精神の支え”となる。
 勿論,言語が“実務”であると感じる経済活動家もいるだろうし,また言語を,“おしゃべり”の便利な手段と感じる人も沢山いるだろう。言語は,一つの決まった顔を持っている訳ではない。様々な人間の一人一人に対して,言語はそれぞれ全く異なった顔を示すことになる。
 だから,そういう様々な人間との繋がりの中で,たまたま言語が人間精神の支えとなり,人間精神の浮力として働くことは大いにあり得るのだ。
 言語に裏打ちされて,人間精神は動き始める。重い荷物を持って浮かび上がろうとする。
 もし言語がなければ,“精神”は人間にとって,重い“墓石”でしかないだろう。言語があるから,人間はその重い墓石をもって,浮かび上がろうとする。いや,高く飛翔し,精神と共に生きようとする。人間の顔も,そこで生き返るのである。
2.
 飛翔するグライダーは軽い。メッセージ,またはメッセージの一部をなす記号過程は,一貫して,話者の選択の中に生じる「固定順位」を軸として形作られる(第1章)。
 固定順位がなければ我々のメッセージは,原理的には無窮動の状態に陥る。
 その記号過程を《内容》から見ると,話者の選択の中に生じる文の「核」と,その核に統辞関係を支配されて配置される副次的な「核」。そしてこういった様々なレベルの核を取り巻く「限定部分」と,限定関係の中核をなす「機能辞」が,我々のメッセージを取り仕切っている(第2章)。
 固定順位をサンタグマティックなレベルで演出するのは機能辞と,冠詞のある言語では冠詞だが,冠詞は,極めて限られた数のメンバーの中から話者が繰り返し選択する要素だから,その情報量はいずれも極めて乏しい。しかも,その中では定冠詞の頻度が,圧倒的に高い。ゆえに定冠詞の情報量は,それに応じて更に極度に乏しい。
 そのことから一直線に言えることだが,比較的〈関心度の高い話題〉に付き添うのが不定冠詞であり,大きな〈無関心〉の度合いを示すのが,定冠詞である(第4章)。当然のこととして定冠詞は,二度目以降の〈話題〉に付き添うだけでなく,改めて特段の注意を払うに値しない,極めて高い〈一般性〉に身を隠した個体や,更には,ほんの通りすがりで全く話題の名には値しないが,統辞論上まだ独立していて〈慣用句扱いには出来ない〉名詞表現,などにつく。
 さてこれまでの章で,文法書が扱うモルフォロジーの問題は,動詞の形態論を別とすれば殆ど網羅している。
 残っているのは,動詞の〈時制〉について(第5章,11章,13章)と動詞の〈態〉について(第6章,8章,9章,10章,12章),そして表意〈対立〉の細部について(第7章,8章,9章),といった所であろう。
 ということは我々の言語信号が,その基本構造としては,これまでの章で扱って来たような短い句構造を反復利用することで成り立っていることを物語っている。
 最後に,動詞の時制に関連した基本概念,〈始めも終わりもない時間帯〉に,ここでやや詳しく触れておく必要がある。この概念は,第5章“「未完了」特性について”を理解するのに欠かせない。
 始めも終わりもない時間帯,と言えば,典型的に,日本語を含む多くの言語に見られる,〈現在〉時制が示す時間帯である。「食べる」「書く」「行く」と言えば,それが何時始まり,何時終わるかに,我々の関心は全く向いていない。ただ,その事態が,いま起きているという事実に,我々の関心は集中している。
 これが,ここに言う〈始めも終わりもない時間帯〉の特性である。だが,これをこのまま過去に平行移動する,と言われると,そういう時制を日本語に持たない我々は,若干,当惑する。しかし,現在という時制を過去に平行移動して得られる過去時制こそ,フランス語のimparfait(「半過去」)にほかならない。本国フランスにおける文法学者も,長い間,彼らがimparfaitと名づけたこの時制と,present「現在」時制との大きな相似性を論議する気にはならなかったようだ。
 けれども,1)「現在」と呼ばれている時制と,2)imparfait,―日本語では「半過去」という,大変分かりにくい名称で呼ばれている過去時制が,3)それぞれ〈現在〉の時間帯,あるいは〈過去〉の時間帯から切り取っているのが,この〈始めも終わりもない時間帯〉であることは,心得ておくべきである。4)そして,そのような時間帯を背負った,我々の〈経験〉,あるいは〈事態〉は,それぞれ問題の時点で,既に始まっており,しかも終わりの見えない,経験,事態であると考えてよかろう。
 蛇足になるが,フランス語の複合過去,単純過去は共に,事態を,小さな全体としてこぢんまりと捉える。その事態を半過去で示される別の事態が,大きなマントでくるむように同時性の関係でくるむ。くるまれる事態は,全体として捉えられた一回の事件,一回の事実であるのに対し,くるむ方はその瞬間の事態を,部分的に捉えたものである。大きなマントはその瞬間,風に翻っているが,よく言われるように,途中経過の状態で捉えられた〈部分的な〉事態である。
 現在時制においてはどの言語においても一般に,動詞の描く事態には,事態の発生が印づけられるのみで,事態の〈始めも終わり〉も,その刻印が印づけられることはない。事態の発生は最も単純な形で表現されるのが普通である。現在時制では,このように,動詞事態が裸で表れる。しかし過去時制では,事態の発生だけでなく過去の標識が加わる。過去の時間帯に一回,事態が〈独自な事件として〉発生したことを印づけるマークである。(このマークは半過去の場合を除いては,他の事態との〈同時性〉を含意しない。)半過去はそれに対して,〈過去〉における〈事態の発生〉に言及するのみで,その事態の〈始め〉についても〈終わり〉についても刻印を残さないから,何時でも,何らかの他の事態との同時性を含意できる。それが,日本語には欠如しているがフランス語には見られる,〈始めも終わりもない〉過去の事態である。
 私はimparfaitをそのまま「未完了過去」と訳して使用してきた。しかしこの時制に「未完了」の名を冠するのなら,同じタイプの時間帯を含意する「現在」時制にも「未完了現在」という名を冠することが必要になるまいか?
 その辺りの事情をよく勘案しての結論であろうが,A.マルティネはimparfaitの名称を廃して,ただ単純にpasse「過去」と称した。そのことはどうか,心に留めておいて頂きたい。
3.
 私には極めて優れた先輩,友人がいた。
 彼らとの交友が私にもたらしたものは計り知れない。
 寂しいことだが私の年長の知己,友人は,その多くが,今は鬼籍に属する。
 年長の友から得たものは,若い友に返すべきだが,それはまことに,言うは易く,果たせない難事業の一つである。
 私は1964年に渡仏したが,その前後から本書の第1章が書かれる1980年までの約16年の間にも,私は機会があれば筆を取っている。いずれまた「紀要」に発表した以外の論考も,纏める折があろう。
 本書は私が,現役時代の33年間に東京外国語大学の《紀要》に書き残したものを収録しているが,実際に第4章から最後の第13章が書かれたのは,1990年に始まる最後の5年間にすぎない。1990年以後は,大きいものは年に一本,小さいものは年に2本のペースで書かれることになった。
各オンラインショップでご購入いただくこともできます。
Amazon honto 紀伊國屋書店
セブンネットショッピング 楽天Books TSUTAYA online
The viewport has not loaded.
前に戻る

Googleブック検索

Powered by Google

Googleブック検索で三修社の書籍が検索できるようになりました。全文検索やプレビュー機能をご利用ください。