次は大学に勤めていた頃の話をしましょうかね。博士課程3年が終わる頃に、どうせ仕事がないから勉強と非常勤を続けて行こうと思っていたら、たまたま運よく29歳の時に大学の専任に決まってしまいまして。大岡山にある国立理系大学に勤めることになりました。そこで全く気質の違う子たちに出会うことになります。
理系の子たちはなんというか、違うんですね。文系的な甘えが許されないというか。それで、彼らが納得できるように説明しないといけないんです。文系の場合は「ねえねえわかるでしょ」と言えば「うんわかります」と言ってくれる子が多いんですけれども、理系の子は「いいえわかりません初めからお願いします!」というタイプが多い(笑)。で、それにわたしも応えていかなきゃいけない。「これがわからない」と言われた時に、彼らのことを「バカだダメだ」と思うんじゃなくて、「これに応えないと教師じゃないんだ」と思う所から僕の教師業が本格的に始まったと言ってもいいのかもしれません。
理系の子たちってのは自分の専門に非常にプライドを持っていまして、これについて共感できるところがありました。
特に、自分の研究室に集まってくる非常に個性的な生徒たちの話を書いたのが『外国語の水曜日』という本です。これは現代書館から出したんですけど。これはゼミ生の話みたいに書いてありますが、この理系大学でわたしは教養科目担当でしたから、ゼミなんてないんです。だけど自由科目のロシア語上級なんかを受講する、数少ない学生たちが僕の研究室に入り浸って、だんだんそれが増えてきて、気がつけば20人くらいの大所帯になっていました。彼らとおしゃべりしたりコーヒー飲んだり。それが水曜日だったんで、ああいう本ができたんです。
ロシア人の先生なんかも交えて、だいたい16時半くらいからコーヒーを飲むんですけど、その頃から学生を躾けていまして、「ポン」と手を叩けば学生がコーヒーを持ってきてくれるんですね。「ポンポン」と二つ叩くとビールが出てくるみたいな(笑)。で、みんなで飲みながらずっとおしゃべりしてて。それはとても楽しい思い出ですね。
でもまあそういう所に集まる子たちというのはアンチ英語が多かった気がします。英語に対していろいろ思う所があったのでしょう。だけど僕はその当時、ティーチングアシスタントとして、他の大学から、事務をやる子たちを雇う枠を持っていたので、それであちこちの大学から英語学の専門をやっている子や、チェコ語学とかウクライナ語学をやっている子たちを呼んでいました。中には修論の面倒を見てあげてた子もいるんですが。そういうことをしていました。そういう子たちと交流していくことで、理系の子たちも英語に対する見方も含めていろいろ変わっていったと思いますし、それはとてもいいことだと思いましたね。
ただですねぇ、やっぱり押し寄せる英語の波には勝てず、実学志向の強い理系ではどうしても英語重視で、他の言語はちょっと……というふうになってきました。僕が現代書館さんから2冊本を出したあたりでは、書評に取り上げられたりとかいろいろ注目されたんですけど、それでもそれを読んだと言っていた大岡山の大学の学長が僕の所に来て「いやー黒田先生、本出してますねぇ」と、そこで止めときゃいいのに一言、「ときに、ロシア語なんて取る学生いるんですか?」って言うんで、足踏んづけてやろうかと思ったんですけれどもね(笑)。つまり全く理解がないんですよね。
で、確かにロシア語を履修する学生は減る一方でした。当時僕はテレビ講座をやっていたのに、僕の授業を受ける学生が誰もいないっていうことは、やっぱり悲しかったですね。これは僕自身の問題もあったのかもしれませんが、結局ロシア語教師でしかないんだなと。もうちょっと自分の幅を広げなきゃいけないなと反省しました。それで言語学を教えるようになり、これはその理系大学の教養科目でも教えるようになり、非常勤でも教えるようになって……というふうにだんだん幅を広げていくようにしました。
そんな時に私立大学の英語教師の話が来ます。知り合いから「英語なんだけどやらない?」って言われて、びっくりしたんですけれどもね、できませんと言うのもしゃくだなと思って。自分の幅を広げようと考えていたところでしたから、大学を移籍する決意をしました。2003年の4月からです。それは恨まれましたねぇ学生から。先生ひどいよって言われて。ほんとにひどいと思うんですけれども。もっとも今でもかつての大岡山の子たちとも年に何回か飲んだりしていますけれどもね。
そして今度は川崎市の生田にある大学に勤めるんですけれども、そこでは英語以外にも低学年のゼミを担当して、そこで言語学を教えることになります。その言語学を教えた経験が中心になって、講談社現代新書から『はじめての言語学』を出しました。
英語を教えるというのも悪くなかったし、なかなか楽しかったんですけど、ただ初め、そこでロシア語も教えるということを聞いていたんですが、それは実現しなかったですね。
もっとも、この生田にある大学は私立で総合大学なのでいろいろな学部があります。この近所にもキャンパスを持っていて、あとはその名も「明大前」というところにキャンパスがありまして(笑)。同じ大学内なので文学部にも出講して。文学部に出講すれば理工学部の授業を減らしてもいいっていうんで、じゃあ出講しようと。で、そこで英語専攻の子に授業をするという。なんと厚かましい話かと思うんですが、やってました。その時の教え子が、この『ぼくたちの英語』に登場しています、不幸なC君とP君なんですね。
彼らは僕のことを何も知らないで英語の専門家だと思っていたみたいですが、とんでもない! 毎週英語の教科書を一生懸命読んで、覚えてから授業をしていたんです。彼らを教える1年前からそういうことをやっていましたが、でもそれはそれでなんとかなるんです。人間やればなんとかなるんだと思います。でももうこの先こういう冒険はしたくないですけどね(笑)。
ただ、私立の理系学部に勤めるようになって、いろいろ教えられたんですけれども、やっぱり理系の人たちは、いい人もいっぱいいるんだけど、どうも実用しか理解できない、数字のあるものしか理解できないんだなという事にとてもがっかりしました。
それに加えて、僕のやりたかった英語教育ってのは、TOEICとかe-ラーニングではなかったんですね。で、目の前の学生たち、文学部の学生も理工学部の学生も同じようにとても大事に思ってたんですけど、でもそれ以外に、高校生とか、社会人とかにも何か伝えることがあるんじゃないかと考えて、「この大学にいたら限界だな」「大学を辞めよう」と思いました。再び学生に恨まれました、「先生ひどいよ」と。そうですねぇいつもひどいんです僕は。それでも、辞めて3年目になりますが、理系の子ですから大学院に行く子も多く、そろそろみんな修士課程が終わって就職するんですけれども、その子たちとも時々会ったりしてます。その子たちにとっては僕は「英語の先生」なんです。当時からとても不思議に思っていたみたいですけどね。僕と「ロシア語を教えている人」とが一致しなかったみたいです。ある教え子が「先生と同姓同名でロシア語の先生がいますね!」と言ってきましたから(笑)。中には声を潜めて「先生!変な噂があるんですけど、先生ロシア語なんかできませんよね?」なんて言われて。そんな、声を潜めて言うことはないんじゃないかと思いましたけど(笑)。
わたしは長らくロシア語のことをずっと追いかけてきて、今振り返っても10代から20代までロシア語がうまくなりたいということ以外何も考えなかったんじゃないかと思います。だけども、ロシア語だけの殻に閉じこもりたくない、という気持ちも非常に強かったです。こうやってスラブ系のセルビア語とかチェコ語とかポーランド語とかを勉強していくのには、それはそういう世界がとても楽しいということもあるんですけれども、僕はロシア語を相対的にとらえたいと。そのためにはロシア語だけでは不十分だ、周りを固めなきゃ本物じゃないんだ、というふうに思っていたからそういうことをやったんだと思います。決して、端から首つっこんでみたい、というのとは違うというふうに自分では考えています。
何事をやるにしても僕はトリビアは嫌いです。豆知識がいっぱいあるんじゃなくて、体系を捉えることが大事なんだ、全体を押さえないとだめなんだということは常に思っていまして。まあそういう生意気な子だったんですね昔から。
で、だからまず多言語が必要だと思いました。加えて、専門家だったら文献を読めなきゃならない。英語に加えて、フランス語やドイツ語でも文献を読めなきゃいけないと思いましたから。高校の時からのフランス語、大学から始めたドイツ語なども全部合わせて、勉強は続けました。ただものすごく自信ないですけどね。これでいいののかなあと。自信はないけどやってきました。必要な外国語だけをやってきたつもりです。
のちにさまざまな言語を学びます。中には一見関係のないようなものも学んでいますけれども、僕はかならず言語学理解のため、というのを設定した上で学んだつもりです。だから、僕は「外国語オタク」ではないつもりです。オタクという言葉はどう響くかわかりませんが、わたしはいわゆる「外国語オタク」ではないつもりです。必要なことをやってきたに過ぎない。ただ、僕が目指したのはたった一つの言語ではなかった、ということなんですね。
そんなことをしているといろいろな知り合いが増え、つながりも増えていったなと思います。