「私は呼び出しを受けている」。朝の8時前、この告白とともに一人の女性が住まいを出る。1980年代のルーマニア、とあるアパレル縫製工場で働く「私」は、今日は自分に出会いたくないという屈折した気持ちを朝から抱く。国外逃亡の嫌疑をかけられたため、毎回10時きっかりにアルブ少佐の尋問に出頭しなければならず、今日がまさにその日だ。
アルブの事務所に向かう途中、「私」は路面電車に乗っては降りる乗客たちをつぶさに観察する。父と子のやり取り、アスピリンを求める老婆、空席に座ろうとしない老人、ファイルを持った紳士、くしゃみの止まらない男、さくらんぼの紙袋を持つ買い物帰りの女など、様々な人々が乗り合わせる路面電車は、社会の縮図、それもチャウシェスク独裁政権下の「今日」だ。
アルブの元へ向かう際、眼前の出来事が契機となって、様々な過去の出来事が「私」の意識に浮かび上がってくる。 路面電車内で起こる出来事に過去と現在の様々なエピソード――死、血族、狂気にまつわる小さなエピソードのひとつひとつがコラージュのようにつなぎ合わされ、大きな「物語」を形作る。 「今日」の自分に出会いたくなかった「私」はトラウマの中でいわば新たな『ユリシーズ』を紡いでいく。(訳者あとがきより)
原題:Heute wär ich mir lieber nicht begegnet(今日は自分に会いたくなかったのに)
あたかも、万華鏡の中に閉じ込められて、覗き見られながら、変転する自らの過去を追想しているかのような「私」。――監視下の窒息的な愛と時間の中に棚引く死の記憶。
帯文 小説家 平野啓一郎氏
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