三修社 SANSHUSHA

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呼び出し

著者名
ヘルタ・ミュラー 著 / 小黒康正 訳 / 髙村俊典
判型
四六判/上製
ページ数
320ページ
ISBN
978-4-384-05984-7 C0097
初版年月日
2022/05/30
定価
3,080円 (本体 2,800円+税)
ジャンル
文芸 > 文学

ノーベル文学賞作家ヘルタ・ミュラーが描く
独裁政権下のルーマニア

「私は呼び出しを受けている」。朝の8時前、この告白とともに一人の女性が住まいを出る。1980年代のルーマニア、とあるアパレル縫製工場で働く「私」は、今日は自分に出会いたくないという屈折した気持ちを朝から抱く。国外逃亡の嫌疑をかけられたため、毎回10時きっかりにアルブ少佐の尋問に出頭しなければならず、今日がまさにその日だ。

アルブの事務所に向かう途中、「私」は路面電車に乗っては降りる乗客たちをつぶさに観察する。父と子のやり取り、アスピリンを求める老婆、空席に座ろうとしない老人、ファイルを持った紳士、くしゃみの止まらない男、さくらんぼの紙袋を持つ買い物帰りの女など、様々な人々が乗り合わせる路面電車は、社会の縮図、それもチャウシェスク独裁政権下の「今日」だ。

アルブの元へ向かう際、眼前の出来事が契機となって、様々な過去の出来事が「私」の意識に浮かび上がってくる。 路面電車内で起こる出来事に過去と現在の様々なエピソード――死、血族、狂気にまつわる小さなエピソードのひとつひとつがコラージュのようにつなぎ合わされ、大きな「物語」を形作る。 「今日」の自分に出会いたくなかった「私」はトラウマの中でいわば新たな『ユリシーズ』を紡いでいく。(訳者あとがきより)


原題:Heute wär ich mir lieber nicht begegnet(今日は自分に会いたくなかったのに)


あたかも、万華鏡の中に閉じ込められて、覗き見られながら、変転する自らの過去を追想しているかのような「私」。――監視下の窒息的な愛と時間の中に棚引く死の記憶。

帯文 小説家 平野啓一郎氏



2022年7月10日の北海道新聞書評で紹介されました。

北海道新聞社許諾D2207-2210-00025262

著者紹介

ヘルタ・ ミュラー(ヘルタ・ ミュラー)
1953年、ルーマニア・ニッキードルフ生まれのドイツ語作家。代表作として、処女作の短編集『澱み』(1984年、邦訳2010年)のほかに、四つの長編小説『狙われたキツネ』(1992年、邦訳1997年)、『心獣』(1994年、邦訳2014年)、『呼び出し』(1997年、本訳出)、『息のブランコ』(2009年、邦訳2011年)がある。邦訳はいずれも三修社で刊行された。1987年にベルリンに移住。2009年にノーベル文学賞を受賞するほか、『心獣』によってドイツ国内で1994年にクライスト賞、ドイツ国外で1998年にIMPAC国際ダブリン文学賞を受賞するなど、多数の文学賞を受賞し続けている。
小黒 康正(オグロ ヤスマサ)
1964年生まれ。北海道小樽市出身。博士(文学)。ドイツ・ミュンヘン大学日本センター講師を経て、現在、九州大学大学院人文科学研究院教授(ドイツ文学)。著書に『黙示録を夢みるとき トーマス・マンとアレゴリー』(鳥影社、2001年)、『水の女 トポスへの船路』(九州大学出版会、2012年;新装版2021年)、訳書にヘルタ・ミュラー『心獣』(三修社、2014年)、クリストフ・マルティン・ヴィーラント『王子ビリビンカー物語』(同学社、2016年)等。
髙村 俊典(タカムラ シュンスケ)
1992年生まれ。宮崎県宮崎市出身。修士。論文に「ヘルタ・ミュラー『澱み』における墓地としての故郷」(九州大学独文学会編『九州ドイツ文学』34号、2020年)。

著者/編集者コメント

(訳者あとがきより)
「私は呼び出しを受けている」。朝の八時前、この告白とともに一人の女性が住まいを出る。一九八〇年代のルーマニア、とあるアパレル縫製工場で働く「私」は、今日は自分に出会いたくないという屈折した気持ちを朝から抱く。国外逃亡の嫌疑をかけられたため、毎回十時きっかりにアルブ少佐の尋問に出頭しなければならならず、今日がまさにその日だ。まさにアルブ少佐の「呼び出し」が、第三長編ドイツ語原題の直訳『今日は自分に出会いたくなかったのに』が示すように、陰々滅々たる思いを「私」にもたらす。アルブの事務所に向かう途中、「私」は路面電車に乗っては降りる乗客たちをつぶさに観察する。父と子のやり取り、アスピリンを求める老婆、空席に座ろうとしない老人、ファイルを持った紳士、くしゃみの止まらない男、さくらんぼの紙袋を持つ買い物帰りの女など、様々な人々が乗り合わせる路面電車は、社会の縮図、それもチャウシェスク独裁政権下の「今日」だ。アルブの元へ向かう際、眼前の出来事が契機となって、様々な過去の出来事が「私」の意識に浮かび上がってくる。例えば車掌がパンから塩の粒を掻き落とす様子を目にした「私」は、祖父から聞いた昔話を思い出す。戦後の強制収容所で、祖父は細かい塩の粒を使って歯を磨いていたのだ。塩の粒をめぐる連想が「私」を運ぶ路面電車とかつて「私」の祖父が経験した強制収容所とをつなぎ合わせてしまう。
このように、路面電車内で起こる出来事に過去と現在の様々なエピソードが極めて複雑に絡み合うことによって、物語は進行する。決まった運行時間もなく走る路面電車こそ、想起の場にふさわしい。元夫から受けた暴力の記憶は「私」に死のイメージを植えつけた。逃避行の末に命を失った親友リリーは死後も「私」の意識に絶えず現前化する。戦争犯罪者の父は「私」の強い思慕から逃げるように事故でこの世を去った。祖父母を収容所へと追いやったのは、「私」に関係を迫った「香水共産党員」、元夫の義父だ。祖母は過酷な収容所に耐え切れず、狂気のうちに命を落とす。死、血族、狂気にまつわるこうした小さなエピソードのひとつひとつがコラージュのようにつなぎ合わされ、大きな「物語」を形作る。物語の終盤、「私」は降りるはずの停留所で下車し損なってしまう。次に降りた停留所で「私」が目にした時計の針は、すでに指定時間を五分過ぎていた。そのとき目にしたのは、かつて事故で大破したはずの赤いバイクだ。物語内で流れる時間はおよそ二時間に過ぎない。とはいえ、「今日」の自分に出会いたくなかった「私」はトラウマの中でいわば新たな『ユリシーズ』を紡いでいく。大破したのは赤いバイクだけではなかった。
『澱み』が示した「捻れ」は、『呼び出し』においても冒頭から強く働く。私の呼ばれる回数がだんだんと増すにつれ、「木曜日の十時きっかりに」「火曜日の十時きっかりに、土曜日の十時きっかりに、水曜日もしくは月曜日に」といった具合に私の中で曜日が混乱し、「まるで数年が一週間のように思え」、季節の移り変わりでさえも変に思えてしまう。そう思うのも、路面電車の中から目にとまった白が「私」に悪夢を呼び起こすからだ。ヘルタ・ミュラー文学で頻出するトラウマと化した白は、『呼び出し』の場合、「香水共産党員」が乗っていて、後に毒殺される白馬と結びつく。また、死についても、老若に関係がなく、「順番どおりになったことは一度もなかった」。絶望的な日々の中で、人々は現実逃避策として国外逃亡を画策するか、さもなければ抗い難い死への衝動に身を委ねてしまわざるをえない。『呼び出し』における捻れや倒錯は、尋問中に「私」が思い出した歌が示すように、「逆さまに降った雪」として心に積もる。希望は常にはかなく消え、絶望のみが沈殿し堆積していく。「私たちがようやくほっといてもらえるのは、リリーのところで寝るそのときだろう」。つまり、死のみが人々に安寧をもたらす。
こうした状況の中で「私」の全神経が「走行中の路面電車のような音をたてる」。いまや路面電車が「私」と化し、あるいは「私」が路面電車と化す。『狙われたキツネ』でも巧みに描かれたように、事物が人間と化し、人間が事物と化すのだ。独裁政権下で「私」が住む町では「なにもかもがひっくり返って」おり、強制労働のために祖父がかつて住んでいた土地では「天気のせいで何もかもが傾いて曲がった」のである。祖父と祖母が住んだ煉瓦の家と同様にパウルと「私」が住む古い高層ビルも傾き、走る路面電車は傾き、中の乗客も同時に「前へ後ろへと傾く」。『呼び出し』においても、ヘルタ・ミュラー文学が総じて示すように、人間と事物の境界は揺らいでいく。「ママは、ハンカチで顔をぬぐうときにはハンカチに、机を片付けるときには机に、椅子に腰かけるときには椅子に似ていたのよ」と言う「私」の視角は、決して偶然ではない。さらに附言すれば、ドイツ語原文において地の文から会話文を区別する引用符が(本訳出では括弧が)無いことも、決して偶然ではないのだ。
「私」にとって「十時きっかりに」という呼び出しの時間だけが、『狙われたキツネ』における状況と同じように、「時なき時」として残る。「私」は目覚し時計の「呼び出し、呼び出し、呼び出し」という音に既に夜中の三時から聞き耳を立てていた。自分自身やパウルのことを考えるよりも先に、アルブ少佐を思い出さざるをえなかっただけに、今日は自分に出会いたくないという屈折した気持ちを「私」は早朝から抱く。そんな「私」にとって、路面電車に乗っている現在であれ、想起された過去であれ、居場所はどこにもない。義理の父が元夫と入れかわり「私」と執拗に寝たがったときもあれば、「私」がおさげ娘と入れかわり実の父親と寝る妄想を抱いたときもあった。現在であれ、過去であれ、歪んだ関係しか「私」にはない。
 「私」はパウルと出会い、「ずれのある高層ビル」で二人で暮らし始める。とはいえアルブ少佐の尋問に「十時きっかりに」出頭しなければならず、その度に「幸せを最初から家に置いていかなければならない」。出頭の朝となると、「私」は執拗に「順番」にこだわる。朝起きて、ベッドから最初に床の上におろすのはいつも右足で、左足からはあり得ない。小さなタオルと歯みがき粉と歯ブラシをハンドバッグに入れ、リリーの形見である「いまだ成長し続けている緑のブラウス」を必ず着る。七時半に準備が整うと、前の晩から調理台の上に置いておいたクルミひとつを、「私」がカルパチア山脈から持ってきた「憂いの石」で二度叩いて割って食べなければならない。こうしたことをまるで儀式のように行いながら、「呼び出しを受けている以外に」まったく何も考えたくないのは、「私は何者でもない」からだ。事情はパウルにおいてもあまり変わりがない。ズブロッカで泥酔する際、バイソングラスが乾いた瓶底に立つことを願うパウルは言う、「草の茎は体の中に残る魂と同じように瓶に残るのさ。それで魂を守ってくれるんだよ」と。事物に縋ったところで何の救いもないことを、「私」もパウルも分かっている。とはいえ、藁にでも縋るように「できることなら何でもやっておきたい」主人公は、尋問中に「大きなボタンを回す」。
 今日は自分に出会いたくないという屈折した気持ちを抱く「私」は執拗に事物にこだわる。「ハンカチ、制帽、ベビーカー、桃の木、カフスボタン、アリ――ホコリや風にさえ重みがあった」という言葉はそれなりに重い。「私」は言う、「アルブ大佐が手にキスをする際に私に言うこと、もしくはそこからあそこまでにある舗道の敷石、杭、電柱、窓の数を、私は計算帳に書き込んでいる」と。書かれたものが見つけられる可能性があるので、「私」は書き記すのが必ずしも好きではない。実際、「二人に一人がネルのような人だし、メモを書いてはならない」という思いも強い。しかし、「私」は、生きるために、生き抜くために、書かざるをえない。だからこそ、パウルの想像とはいえ、パウルが父親と神の対話について語ったこともしっかりと書き留める。パウルは父親に言う、「父さんが神さまの所に行ったら、相手は額に灯火を見つけてきくんだ。おい、罪びとよ、わしに何を持ってきたのかな、と。錆び付いた二つの肺、ダメになった椎間板、慢性の眼炎、難聴、すり切れた一着の背広です、と父さんは言う。下界には何を残してきたのかな。自分の党員手帳と制帽とオートバイです、と父さんは言う」と。では、「私」が書き留めた言葉の中で最も重要な言葉はなんであろうか。もしかすると「ほら、物事が結びつくぞ」という言葉かもしれない。ただし、これはアルブ少佐が尋問の際に発した言葉だ。とはいえ、大事なことは、嘘の自白を強要するアルブの言葉が、書きたくないが書かざるをない「私」の中で、事物の「重み」を捉える言葉として意図がずらされていることではないか。決まった運行時間もなく傾きながら走る路面電車のおよそ二時間ほどの時空に、名もなき「私」によって「重み」を与えられた事物が沈殿していく。現代のユリシーズが書き止めた「重み」とは、「時なき時」における捻れであり、倒錯であり、傾きである。ずれがあるのは「高層ビル」だけではない。