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関口存男「ニイチエと語る」現代表記版

更新日:2019.07.22


『セレクション関口存男 ニイチエと語る』の刊行を記念しまして、表題作「ニイチエと語る」(初出「獨文評論」1935 年8 月)の現代表記版を特別掲載します。

表記を、新漢字・現代仮名遣いに改め、またブラケット内に註を加えました。


本文中には、今日の価値観においては不適切と思われるような語句や表現がありますが、作品発表当時の時代背景、また著者が故人であるという事情に鑑み、発表当時のまま、掲載いたします。


三修社編集部


PDF版はこちらからダウンロードできます。



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関口存男 ニーチェと語る

現代表記版


キリスト 

[なんじ]の隣人を愛せよというのが、どこが悪いのですか。

ニーチェ  

まず第一に『どこが悪いですか』とおっしゃるその『悪い』という言葉が悪い。汝の隣人を愛するのは悪くもなければ善[よ]くもない,『ただくだらない』きりです。第一、その『善い』とか『悪い』とか(gut und böse)いう術語が既にその汝の隣人を愛するという立場から発明された,一癖も二癖もある術語なんで,本当ならば『良好』なのと『駄目』なのと(gut und schlecht)を区別すれば充分なものを,あるいは『好都合な』事柄と『都合の悪い』事柄とを(gut und schlimm)区別すればよいところを,それでは立ち行かない人生の敗残者どもが鳩首合議[きゅうしゅごうぎ]して畢生[ひっせい]の知恵をしぼってどこからかほじくり出してきたのがすなわちこの善と悪との区別です。いったい、勢いの強い奴は呑気[のんき]でぼんやりしているが,社会の下積みになってしょっちゅう強者のお尻ばかり鼻の先に眺めている奴どもは,動けないでジッとしていなければならないから自然頭が良くなるとしたもので,発明するとなればなかなかうまい事を発明しますよ。つまり善悪とか道徳とかいうのが,そういう連中の大仕掛けな犯罪なんです。弱者の陰謀ですな。そしてその張本人は,失礼だがあなたではないかと思う。

キリスト 

そしてその芋づるを手繰[たぐ]りだして告発した検事があなただというわけですね。――弱者は頭が良いとおっしゃるが,そういえばあなただってなかなか頭が良い。道徳が陰謀だとすれば,その陰謀を見抜いた検事の頭だって、これで相当なものじゃありませんか。

ニーチェ 

もちろんそうです。大仕掛けな陰謀を摘発するとなれば,それと同等,あるいはそれ以上に大仕掛けな陰謀を必要とします。それは当然です。人の悪さにかけては,犯人と検事局とどっちが人が悪いかといえば,それはもちろん検事局の方が2倍も3倍も人が悪くなければ世の中がおさまらない。それ位の事は,犯人と検事の人相を比ベてみてもわかるはずです。――弱者の陰謀もかなり手の込んだややこしい念の入ったものだが,それを嗅ぎつけて,隅から隅まで見抜こうとした私の考え方だってなかなか手の込んだややこしい考え方です。一筋縄では片づかないですからなあ。

キリスト 

ややこしいというよりは,むしろひねくれているという噂ですよ。

ニーチェ 

ひねくれているのは別に私のせいではない,それはむしろあなたのせいではないでしょうか。直接にあなたのせいではないかもしれないが,少なくともキリスト教というものを考えれば,直接間接にあなたの不徳の致すところだ。靴が真四角ではなくて妙に曲がりくねって作られているのは,これは靴のせいではなくて,足のせいですからね。靴それ自身は曲がってもどうしてもいない,ただ足に合わせて作られているきりの話です。私の文化批判が妙にひねくれていて底意地が悪いのは,これは批判のせいではなくて,批判の対象たる近代ヨーロッパ善悪意識なるものが,ひん曲がって,ふんぞり返って,極端な奴になるとまた元通りになっているくらいだからです。私自身の積極的主張となれば,これはむしろ曲がったものやねじけたものや,ややこしいものや,毒々しいものの正反対で,これを卒直に唱えるとなればもはやなんらの皮肉も毒舌もはた心理解剖をも要しない体のものなのですが,検事としての活動となると問題はおのずからちがってきます。

キリスト 

では,その,あなたの積極的主張というのはいったいどういう風なのです。

ニーチェ 

一言にして言えば,要するに,善悪なんてものが問題にならない程度の力強い世界へ飛び上がれ,そこはほがらかであるぞよ,という事に過ぎません。

キリスト 

そんな事ができるでしょうか? 人間が人間である以上,そんな事は言うべくして行われ得ない事ではないでしょうか?

ニーチェ 

ではあなたの天国はどうです。天国は到来しますか? 人間が人間である以上,天国なんてものは到来すべくして到来し得ざるものではないでしょうか。

キリスト 

到来する人には到来します。それが到来せんことを希[こいねが]う人の心の深さに従ってそれぞれ到来できるだけ到来します。多く希う人には多く到来し,少なく希う人には少なく到来します。

ニーチェ 

すれば私の超人宗教といえども同じことではありますまいか。

キリスト 

同じ事かもしれないが,あなたの理想には倫理的な深さというものが無い。現在の西洋人の心の中に掘り下げられている倫理的な深さというものは,これは一朝一夕にして生じたものではない。これは私がおよそ二千年ばかりもかかって,やっとこれだけにまで堀り下げたものだ。それを今すぐ埋めてしまえとおっしゃったって,それは少々御無理というものではないでしょうか......

ニーチェ 

倫理的な深さとおっしゃるが,その深さがどういう深さだという事を考えて御覧になった事がありますか? 深さにも色々あって,掘れば掘るほど人間の幅員[ふくいん/はば、広さ]が大きくなるような良い深さもあれば,また掘れば掘るほど岐路に迷い込んでしまって,だんだんとお天道さまと御無沙汰してしまって,結局夜と昼との区別のわからなくなるようなくだらない深さというものもある。もっとも,元来何の深さも持っていない原始人を相手にする場合には,全然深さを持っていないよりはむしろくだらない深さでも何でも良いから深さを与えてやった方が良いかもしれません。その意味において,あなたが私達ゲルマニアの野蛮人を一時教化してくださったのはもちろん非常に結構だと思って感謝はしています。けれどももはやこれ以上いくら教化してくださったところで,邪魔にこそなれ,進歩の足しにはちっともなりません。御親切はかたじけないが御思し召しがおそろしい。――それにいったいいわゆる道徳的なんてものは,これは明らかに一種の危険思想なんで,当局がついうっかりして適当な時期に取り締らなかったものだからとうとう今日のようにはびこってしまったので,適当な時期に厳重に取り締っていたら,第一善悪などという無理なスローガンはできなかったでしょう。『良い,わるい』という区別だけで力強く押して行ったほがらかな文化形態が充分考えられる。現にギリシャなどはその方向へ進みかけていた。そこへあなたが飛び込んで来て,くだらない奴等がブロックを作るのに都合の良いようなスローガンを捏造[ねつぞう]してアヂる[英:agitateより、煽ること]ものだから,せっかくのヨーロッパ文化が変な方向へ曲がってしまったのです。あなたの宣伝がいかに巧妙なものであったかということは,たとえばこの宣伝ビラがこれを証している。この宣伝文は多分あなたがお書きになったのでしょう?


かくの如き症状の患者は

隣人愛を服用すべし:

(1) 肩凝りしたり,からだがだるく,疲れやすい人。

(2) 動悸がしたり,息切れたり,咳,痰など出る人。

(3) 不眠が続き憂鬱になり,ともすれば世間がうらめしくなり,人生に取り残されたような気のする人。

(4) 感冒引きやすく,寝汗が出て,時々悪寒がしたり,人が何とも思っていないのに自分の頭の中だけでしょっちゅう何の益にもならない熱の出ている人。

(5) 食欲進まず,顔色青ざめ,消化不良,健啖[けんたん/食欲旺盛]な人を見ると不愉快でたまらず,カツレツやライスカレーを見ると今更のように禁欲・衛生の必要を痛感する人。

(6) 何の原因もなく頭痛・めまいがしたり,月経滞りがちにて,時々詩を作る人。

(7) 喧嘩すると必ず負けることがわかっているが,そうかと言って黙って泣き寝入りしてしまうほどには達観し切れないために,その腹いせとして,人無き一室に閉じこもって我れと我が身を思う存分ひっぱたいたり,つねったり,蹴っ飛ばかしたりして溜飲を下げている人。


キリスト 

......ちょっと待ってください。そんな宣伝文を私は書いた覚えはないがね......

ニーチェ 

だってこの通り検事局の方へ回付されています。

キリスト 

いや,それは誰かが捏造したものだ。私の教えをそういう風に滑稽化するというのが,これが取りも直さずあなたのひねくれと言うもので,あなたがいかに事実を離れてしまっているかを露骨に証している。検事というものは,それはなるほど犯人以上に裏の裏を潜って廻るだけの頭が無くてはならないものかもしれないけれども,そいつがあんまり極端になってくるというと,ついにはどっちが犯罪だか訳がわからなくなってくる。――仮にあなたの口調を借りて,キリスト教というものが,ヨーロッパにとりついた悪魔だとするならば,その悪魔を追いのけるためにまた第二の悪魔を必要とするというのはちょっと私の首肯しがたいところですな。悪魔だとするならば,悪魔は一匹で沢山なんで,一匹の悪魔を二匹に増員しなければならない理由はどこにもない。哀れなるヨーロッパは二匹の悪魔には堪[た]えないでしょう。

ニーチェ 

健全なるヨーロッパは二匹の悪魔に堪えるでしょう。ドイツ語にも Wer A sagt, muß auch B sagen[日:Aと言う人は、Bも言わなけばならない]という俗諺[ぞくげん/ことわざ]がある。毒食[く]や皿までと日本語でも言う。毒という奴は,いっそ食わなければ食わないでそれで済むが,食った以上はその次に必ず皿を食う必要がある。皿は食わなくても良いが,第二の毒を食う必要がある。Gegengift[日:毒消し]ってぇ奴をですな。ヨーロッパの文化はいつの間にかそういうところへ来ているのです。――けれども,なにも別に悪魔とか毒とかいったような比喩を借りる必要もないでしょう。とにかく問題は人間の心の生理的発達だ。あなたはとにかくヨーロッパ人の心というものに,それより以前にはなかったような,ある種の深みをお拓[ひら]きになった。地下を,どん底を,裏面を,蔭[かげ]をご工作になった。それは大変結構だったのです。そのためにヨーロッパ文化には,下への幅員,内部への方向が授けられた。高きに聳[そび]えんと欲する者はまず足下を掘る。ビルを建てるようなものです。ことに......掘り下げたきりで,穴の中でエンチして居眠りしているどこかの国民とはちがって......

釈迦 

それは私の事ですか?

ニーチェ 

そうです。そういう文化とはちがって,わがヨーロッパ人たちは,下を掘ると同時に上へも,外へも築いている。近世の機械文明,理智文化をごらんなさい。だから決してキリスト教や道徳などが無意味であったとは申しません。

キリスト 

無意味であったとはおっしゃらないのなら,ではいったいどうだとおっしゃるのです。過去においては意味があったが,現在においては無意味であるとおっしゃるのですか?

ニーチェ 

そうじゃありません。将来において,無意味になるようにしなければならないと言っているのです。いったい人間界というやつは,道徳の立場から考えると,何一つわからなくなる。善因善果,悪因悪果なんて言ったって,実際がそうでないことは三歳の童子といえどもこれを本能的に心得ていて,たとえば悪い事をする奴がいたらすぐその場でぶん殴ってしまおうとする。おれがぶん殴らなければ誰もおれの代りにぶん殴ってくれる人間はないという事を本能的に感づいているわけですな。またそれが最後の意味において正しいんで,世の中というものを,まるで勧善懲悪,思想善導用の脚本のように見ようったって,そうは事実が許さない。できるだけそういう風に見えよう見えようと思って,あっちの隅っこに立って眺めてみたり,こっちの隅っこにカメラを据えてみたりしているうちに,とうとう現世の縁から足を踏み外して,来世だか何だか変なところへドブンと落っこっちゃって,『見えた見えた!』と言って喜んで見たところで,現世の舞台にしっかと足を据えている人間には,何がどう見えるのやらさっぱり訳がわからない。来世にいる人間になら来世から見た来世観がわかるでしょう。現世にいる人間には現世から見た現世観しかわからない。それとも我々人間は現世にいるのではないのでしょうか? あなた方はいったい人間がどこにいるとお思いになります? まるで尋常一年生[尋常小学校は戦前の4年制の小学校。現在の小学校一年生と同じ年齢]に質問するような問いだが,本当のところ,我々人間はどこにいるのです。来世にいるのですか現世にいるのですか。来世にいると思う人は手を上げてごらんなさい。

釈迦 

(ちょっと手を上げかけて,一旦おろして,それからまた上げる。)

ニーチェ 

本当にですか?

釈迦 

本当に......本当は......本当のところはもちろんやっぱり現世にいるんでしょうな。

ニーチェ 

じゃあ手を下げてください。

釈迦 

(手を下げる)

ニーチェ 

これをもって見ても,あなた方の考え方にはある種の錯覚があるという事がおわかりになりましょう。とにかく,この現世という奴を,『道徳的現象』として観ようとしたり,『良心』と符合して納得できるように見ようとしたりすると,現世の外観を勝手に変えるわけにはいかないから,事実を事実として事実たらしめんがためには,貴君方ご自身の視角の選び方そのものが変な具合になってきて,結局人間の心を多少に拘らず病的に歪めないというと,その深さとか何とかいったようなものが掘れなくなってくる。――道徳的に見るという行き方では,もはやあらゆる見方が試み尽くされてしまった。もうどんな大哲学者が出たって,どんな宗教家が飛び出したって,『道徳的見地から世の中を首肯しよう』とする道は,もはや現在より以上一歩も進めたものではありません。第一解決するとか解決しないとか言う事それ自体が既に意義を失って良いのです。解決なんかしなくったって良い。解決する暇があったら一歩前進すればいい。前進は解決です。

キリスト 

道徳の問題はどうするのです。

ニーチェ 

道徳の問題はそのままほったらかしておくのです。『ほったらかす』というこの素晴らしく天才的な解決方法があるという事をお考えになった事はありませんか?

キリスト 

けれども,人間としてこの世の中に住んでいる以上,善悪が絶対に問題にならないような処世法が取れるものでしょうか。たとえばあなたご自身にしても,意地の悪い奴に引っかかったり,身に覚えのない仕打ちを受けたり,またあなたご自身がつい悪い事をしてしまって良心を悩ましたり,可哀相な人を見たりすることは,現に起ってきませんか? そういう時にあなたはそういうできごとをどう思うのです。

ニーチェ 

どう思うったって,それはその時の様子によって何かこう反射運動なり反応作用なりが起こるでしょうから,そんな事をあらかじめ心配しておく必要はありません。可哀相な人を見たら可哀相だなァと思うでしょう,けしからん事をする奴がいたら「こん畜生!」と思うでしょう。何か思う。これが天衣無縫[完全無欠、天真爛漫]の道徳です。

キリスト 

それっきりですか?

ニーチェ 

それっきりです。だってそれ以上それをどう思えとおっしゃるのです。それをいつまでも覚えていて,反芻したり,繰言[くりごと]を言ったり,詩に作ったり,哲学に延長したり,要するに酸敗[さんぱい]して悪臭を放つに至るまでも腹の中に溜めておれとおっしゃるのですか? それは第一衛生上よろしくない。よろしくない事を称して悪いと呼ぶならば,それが本当の悪人だ。恬然[てんぜん/平然]として悪事を行うのが悪人ではない,怏々[おうおう/不満な気持ちで]として悪事を行わざるところの者を称して悪人と呼ぶべきです。無邪気な悪人は大抵善悪の区別を知らない,有邪気な善人こそ真に善悪の区別を知っている。知っているはずだ自分が発明したのだから。かれは善をも発明したが同時にまた悪をも発明した。悪は善人の発明です。だから善人ほどけしからぬ奴はない。善人さえいなければ世の中に悪なんてものは無かったのですからね。

老子 

それは私も全然同感です。大道廃して仁義あり,智慧出でて大偽あり,六親和せずして孝慈あり,国家昏乱して忠臣あり。[出典:『老子』]

ニーチェ 

フンドシあって猥褻あり,神経衰弱して道徳あり,栄養不良にして善人ありです。少なくとも奴隷繁殖してキリスト教ありですな。

老子 

まことにその通りです。天然自然の成り行くところに任せて,敢て人為人工を弄[ろう]する事なければ,善悪の差別の如きはしたがってその機用を失うでしょう。仰いで天をご覧なさい俯して地をお眺めなさい,万物は天然自然の理法に従って生々化々[せいせいかか]してやまず,あえて天理に抗おうとはしない。海は広くして魚の躍るにまかせ,天は空にして鳥の飛ぶにまかす。この天地の間に棲息する我々人間もまた同様でありまして,聖人はただ道にこれ従うのみです。それ道の物たる,これ恍[こう]たりこれ惚[こつ]たり。惚たり恍たりその中に象あり。恍たり惚たり其の中に物あり。窈[よう]たり冥[めい]たりその中に精ありです。[出典:『老子』]

釈迦 

色は空に異ならず,空は色に異ならず。色即是空,空即是色ですな。

ニーチェ 

ちょっと待ってください。あんまり飛躍しちゃあいけません。今ここで問題になっていることは,色即是空とはちょっと違っているのではないかと思います。善悪の区別はないと申しても,私は決して絶対無差別論を唱えているつもりではありませんよ。あなた方の考え方はどうも少し私のとはちがっている。あなた方は,さぁ何と言ったら良いか......人生を将棋だとすれば,将棋盤をがらっとひっくり返して,『やめたやめた!』と言ってあおのけにゴロンとひっくり返ってしまったような事をおっしゃるが,そうなると私はむしろ反対だ。そうなると私はむしろキリストさんの方に味方したくなる。......

老子 

いや,ちょっと待ってください。私の言い方が少し詩的すぎたかもしれないが,私の思想とお釈迦さんのとを一緒にしてくださっては困る。私は現世主義で,決して将棋盤をガランとひっくり返すような事は言わないつもりだ。根本が現世を現世として解決しようという点において,あなたの考え方と非常に似ているのではないかと思う。ただ,あなたのは,どうも少し利口すぎるように思えてならない。私は,超人とか聖人とかいう者は,そんなに利口であってはいかんと思う。面白がって検事の真似をしてみたって始まらない。聖人というものは,いわゆる大賢は愚に似たりで,泊兮としていまだ兆さず,いわば嬰児のいまだ孩[がい/幼児が笑うこと]せざるが如くでなくてはならんと思う。あなただって現にAlso sprach Zarathustra[日:『ツァラトゥストラはかく語りき』]において『われ汝等に三回心を説かん。心は駱駝となり,駱駝は獅子となり,獅子は終に童子となる』〔登張竹風氏訳〕(Drei Verwandlungen nenne ich euch des Geistes: wie der Geist zum Kamele wird und zum Löwen das Kamel, und zum Kinde zuletzt der Löwe ──)と言っているではありませんか。これだ。聖人は愚人の心にかえらなくてはいかんです。あんまりかしこくてはいかんです。かしこくなりたければ,いっそウンとかしこくなって,もはやどこがどうかしこいのやら訳のわからん程かしこくならなければ駄目だ。俗人は昭々たり,聖人は昏きが如し。俗人は察々たり,君子は悶々たり。澹兮としてそれ海のごとし,飂[りょう]として止まる所なきに似たりです。

ニーチェ 

あなたのお説を伺っていると,なるほどと思われる節も無いではないが,しかしどうも,どこかちょっと肌の合わないところがある。子供になれという結論では同じだが,その「同じ」というのが,たとえば答だけ合っている二つの答案みたいな「同じ」で,考え方と公式と,つまり正直に言えば内容が全然別物だ。現世主義という点だけは無条件に賛成します。しかしその他の点では......あなたには私の説は絶対にわからないだろうと思う。

老子 

わからないと言われると私も癪[しゃく]だが,ではいったいどういう点があなたの説の内容です。

ニーチェ 

内容ですか? 内容は......さぁ,ちょっと困ったなァ......形式と公式とは方々で言い散らかして来たが,「内容」と「実量」との問題には,実を言うと,あなたの顔を見て初めて「そういう問題があったのかなァ......」と気がついたわけなんで,どう言って良いかちょっと,わかりませんねぇ......

老子 

あなたの様な大思想家が,自分の思想の内容に今初めて気がつかれたと言うのは妙な話ですなァ!

ニーチェ 

(苦笑して)ところが実際なんです。私もちょっとびっくりしました。何十年間いろんな理屈を捏[こ]ねていて,支那人の顔を見るまで内容に気がつかなかったとは......はッはッはッ......

老子 (笑ふ)

釈迦 (笑ふ)

キリスト 

(苦笑して)それはあんまり私に食ってかかった罰ですよ。

ニーチェ 

あるいはそうかもしれない。ああ,さうだ,この人の顔を見て思い出した。私の説の内容を言うのはわけのないことだ。老子さん,ちょっと窓の外の,あの空をごらんなさい。あれは何です。

老子 

あれは飛行機です。

ニーチェ 

飛行機とは何です。

老子

飛行機の定義ですか? それは......つまり......飛ばなくてもよい物が、飛ばなくてもよい所を飛んで行く,これを称して飛行機と言うのです。

ニーチェ 

多分そうおっしゃるだろうと思った。――もう一つ問いますが,あなたは現代ヨーロッパの芸術を多少ご鑑賞になったことがありますか?

老子 

多少知っています。いや,どうも邪魔くさいものがたくさんあるものだと思って感心しました。

ニーチェ 

あなたには,それらの各芸術がよくおわかりになりますか?

老子 

よくわかります。肥料のよく利いている土地にはいろんな草花が盛んに繁茂する。雀がたくさん寄るとなんだか訳のわからんことをしきりにしゃべくるものだ。よくわかります。よくわかるです。

ニーチェ 

なるほど。それで私もよくわかりました。実際よくわかったです。これで只今問題になった内容云々の問題も立派に解決がついてしまいました。支那人と話すということは良い事だ。『真理は往きて求めざるべからず,たとえ彼女は支那にありとも』と言ったフランス人がいるが,あるいはひょっとするとこの事を言ったのかもしれない。

老子 

どういう風に解決がついたのです。

ニーチェ 

こういう風に解決がついたのです。曰く:『あなたの現世主義と私の現世主義とは形式において一見一致している。けれども,あなたの現世主義は内容の否定である。私の現世主義は内容の肯定である』。

老子 

ちょっとわかりませんね。

ニーチェ 

わからなければ益々私の定義が実証されるばかりです。ひょっとしたらこの定義があなたにわかるのではないかと思って,内々ちょっと心配しながら言ってみたのですが,わからないとわかって非常に安心しました。それじゃあやっぱり私の批評は本質に触れていたのだ。あなたの現世主義と私の現世主義とは,形式において,公式においては完全に一致し,内容においては完全に相反するのだ。

老子 

どういう風に相反するでしょう。

ニーチェ 

あなたには内容が無い。私には内容がある。

老子 

どうもその内容という言葉がはっきりわからないが,それは,手っ取り早く言えば,具体的にはいったいどういう事柄を指しているのです。

ニーチェ 

内容と言うのは,つまり文化の幅員です。同じ事を言っていても,幅員が量的に違ってくるというと,それは結局質の相違になってくる。――「量は質なり」という奇論があなたにはおわかりになりますか? 少々の量の差は量の差です。大々的量の差は「質の差」です。量は質なり! これがわかりますか?

老子 

どうも段々わからなくなる一方だが,その点をもう少しはっきり説明してくださいませんか。

ニーチェ 

私はつまりいわばむしろあなたの根本的欠陥を弁護し是認しようとしているのです。あなたがあなたの説をお立てになった時代の支那文化には大した幅員が無かった。おわかりになりますか?

老子 

そうおっしゃっちゃあ大変失礼にあたるわけだが,ええ,まあ大体わかりました。

ニーチェ 

私が私の説を主張している現代ヨーロッパには,あなた方のそれとは比較にならない程の幅員がある。わかりますか?

老子 

はい,わかりました。たとえそれが無用千万な幅員であるにせよですな。

ニーチェ 

無用か無用でないかは別問題で,その点を裁く権限はたとえば貴君の如きにいたっては最も無いと申してもあえて過言ではないと思うが,それはまあそれとして,あなたの時代における支那と,私の時代におけるヨーロッパとでは,文化の幅員が全然別物であることはお認めになりますな。

老子 

お認めになるとどうなのですか。

ニーチェ 

お認めになるというと,あなたの説は1の文化内容を否定し去らんがために作られたものであり,私の説は10,000の文化内容を肯定せんがために作られたものであるという事をもお認めにならざるを得ないでしょうな?

老子 

そうですかな。

ニーチェ 

して,それは両方とも正しいのである,と言うのが私の結論です。

老子 

肯定も否定も両方とも正しいと言うのはどう言うわけです。

ニーチェ 

そうじゃありません。それはまだ私の申し上げている事がよくおわかりになっていないらしい。否定と肯定とが両方とも正しいのではない,「1ならばこれを否定するのが当然であり,10,000ならばこれを肯定するのが当然である」と言う意味において両方とも正論であると申し上げているのです。

老子 

なるほど。量は質なりと言うのはそういう意味ですか。

ニーチェ 

そうです。そういう意味です。あなたに向って我々ヨーロッパ人の如き意味における現世肯定を望むことは絶対に間違っている。その意味では,私はむしろお釈迦さんやキリストさんのように現世否定論的色彩にお傾きになった人々の方が本当だろうと思う。なまじっかあなたのように,現世を現世だけで解決しようとしなすったのはこれはむしろ不徹底千万な,深みのない,かしこくはあるけれども,大して感心する必要のない説だろうと思う。高々面白いくらいのところに過ぎないのではないかと思う。それ自身大した幅員も備えていない時代の現世をそのままごっそり肯定する奴がありますかッてんです。――けれどもまあ,文化内容と進歩とを全然否定なすったのは,あなたとして確かに頭がよかったのではないかと思う,この点は大いに敬服します。――ところが,私の説となると,これは全然ちがう。書物に書く時には必ずしもハッキリとそうは言っていないけれども,私の超人論というやつは,同じ宗教でも,これまでの宗教とは全然ちがう。現世の内容の上にそのまま立って下を全部包含している宗教なんです。

釈迦 

私たちの宗教に内容がないとおっしゃるのですか?

ニーチェ 

内容という意味を誤解してはいけませんよ。量は質なりです。概念的に考えてくだすっては困る。──いや,なんなら話をはっきりさせるために,内容が無いと言ってもよろしい。あなた方の宗教は形式です。その証拠には,どこへでも持って行って,手当り放題の国民に植えつけることができる。現に植えつけておいでになる。その点はキリスト教も同様です。どんな内容のところへでも勝手に植えつけることのできるものは何ですか? それを称して形式というのではありませんか? もし仏教が形式でなかったらどうしてそれが支那にひろまり日本にひろまることができたでしょう。

釈迦 

そいつは少し極端だ。私たちの宗教だって,必ずしも形式ばかりではない。支那や日本には形式だけしか伝わっていないかもしれない。しかし支那や日本に伝わり得なかった方面もある事を考えてください。つまり,内容ですな。

ニーチェ 

待ってください。けれどもあなた方の宗教の本質は,伝わり得ない内容の方にあったのですか,伝わり得た形式の方にあったのですか。どっちです。

釈迦 

それはもちろん伝わり得た形式のほうにあったのでしょうね。少なくとも歴史的見地からはそういうことになってくる。だから私達インド人は歴史というやつは嫌いです。しかし,そういえばあなただってそうではありませんか。内容というものには,支那人の顔を見て初めてお気づきになったと先刻もお認めになったではありませんか。

ニーチェ 

内容というものはいったい支那人の顔を見なければ気のつかないものではないでしょうかねえ。

老子 

またそんな失礼なことをおっしゃる。支那文化に内容が無いなんてことは,それは毛唐人さんの独り決めだ。毛唐人だって,多少たりとも支那について知っている人なら,そんな無茶な事は言わない......

本居宣長 

ちょっとお待ちなさい。あなたがたは内容争いをなさるが,私なぞから見れば内容なんてものは問題じゃない。文化内容なんてものは,要すれば他人のものをそのままごっそり拝借したって充分間に合うと思う。要は『気構え』だ,『精神』だ。物は使い方でどうにでもなる。ただ『使い方』そのものだけは身についた独特なもので,こいつは各々持って生まれるものだ。文化内容なんてものをエライ重要なものだとお思いになるから,只今のような争いが生ずるので,そんな争いは結局私の眼から見ると,唐人が毛唐人を笑うとでも申しましょうか,たとえば日本人などには何のかかわりもないツマラン問題じゃ。

ニーチェ 

日本人か。はッはッはッは! 日本人となると問題は益々明瞭だ――私の超人論なんてものは,その形式は要するに宣長君のおっしゃった『気構え』みたいなものだから,日本人などならあるいは簡単に受け入れて理解してくれるかもしれない。けれどもその理解がいったいどういう理解になってしまうだろうか,と考えると,私としてはちょっと大混乱に陥らざるを得ない。私が説こうとしたのは,善悪の区別や道徳なんてものは,文化内容の貧弱な時期にはあるいは必要かもしれないが,現在のヨーロッパのように内容が膨脹してくるというと,もはや今まで通りのような価値判断では行き詰まりになるということ,つまり進んだ内容は進んだ価値標準を要求するということを言おうとしたのであって,あらゆる段階に共通なる分母みたいな気構えの形式がある,などということを主張したのではありません。奴隷には奴隷の道徳がある如く,強者には強者の道徳がある。道徳には位階(Hierarchie)というものがある。歴史的に言えば道徳には系図というものがある。Genealogie der Moral[日:道徳の系譜]ですな。日本人がすぐに超人になるべきかどうかは,私もちょっと即答は申し上げ兼ねます。まずさしずめヨーロッパ人になってから,というよりはむしろ,まず人間になってから,それから超人になるべきです。日本人がまだ私の言っているような意味における人間であるかどうかは,私にもよくわかりません。人間にまずならなければ駄目です。やっと人間になったくらいではまだ駄目で,むしろ人間的,あまりに人間的というまでになっていただかないとその次の話はできない。少くとも我々ヨーロッパ人のように,その機械文明をもって,その理智をもって,その思想をもって,その芸術をもって,その人間味をもって,その悲しみをもって,その笑をもって,その涙をもって......要するにその人間的内容の全幅全員をもって一度全世界を風靡してごらんなさい! この際別に何も言わないが,まず我々ヨーロッパ人の肉体をごらんになるがよい! 我々の顔,我々の表情,我々の女をごらんになるがよい! あなた方のとは全然別物ですぜ! あなたがたを無生物とすれば,我々は生物だ! あなたがたを植物とすれば我々は動物だ! あなたがたを動物とすれば我々は「人間」だ!! あなたがたを人間とすれば我々は神だ!!! どうだ! どうだ! どうです!

老子 

そういう風に言われちゃあ......我々としてまた何をか言わんやだ......なあ本居さん。お釈迦さん,どうです。

釈迦 

少し遠慮がなさすぎるね。

宣長 

少し可愛げがなくなったね。

老子 

キリストさんはどう思います。

キリスト 

マァ多少理屈はあるけれども,しかしマァそんなにけつをまくらなくてもよいのじゃないでしょうか。近代ヨーロッパ人が世界史きって優越民族だということは誰だって認めているのだからね。

ニーチェ 

多少言い過ぎたかも知れませんが,そういう風に言わないと貴君がたにおわかりにならないと思ったのです。あなたがたにしても,この,文化内容と,その内容に善処せんとして生れてきた『気構え』としての宗教との間の関係は充分におわかりでしょうが,私の場合が多少異っているのはつまるところこの内容と実量とから生じてくる質の相違なんです。私が相手に廻して取っ組んでいる欧州文明の人間的内容というやつは,こいつはとても一口や二口であなた方にわかっていただくわけにはいかない。感じていただくより仕様がない。我々の喜怒哀楽,我々の技量,我々の物の感じ方,我々の認識,我々の社会,そう言ったようなものが,まるで自分の事のように感じられ,まるで自分の事のように心配になる人でなければ,私の超人論なんでものはわからない。われわれの欧州文明は,いわば一つの大掛かりな『筋書』です。発展と膨脹と盛り上がりを有する大戯曲です。──あなたがたの歴史は,だらだらと書き下ろした随筆みたいな歴史だが,われわれの歴史は加速度をもって一路その結末に向かって力進する悲壮劇みたいなものです。

宣長 

いずれそのうちに大詰めが来ますぜ。

ニーチェ 

来るかも知れません。勢いの極まるところ,あるいは遂に悲絶壮絶なる大詰めに直面するかも知れません。その時は全宇宙が緊張するでしょう。全空間の星辰[せいしん]がその運行をとどめて,ヨーロッパ文明の最期やいかにと固唾[かたず]を呑むでしょう。日本がそうなった時には,それほど大問題が起こるとお思いになりますか?

宣長 

日本がどうなってからどうなるという事は,まだあなたにも誰にも,またかく言う私自身にも全くわからない事ですからね。

老子 

どうも,あなたがたは野心家だねえ。世界というものをまるで公開の舞台のように考えて,そこで一芝居打とうと言うのだから呆れかえって口が利けない。まあやってご覧になるがよい。人間というものがどんな物だかという事は,一応はまあやってみないとわかるまい。しかし,本当はまぁ随分ご苦労千万なことだとは思うがね。わしは見物席で拝見していよう。

釈迦 

わたしも観る方にまわりたいと思いますね。人世や歴史が緊張した芝居の筋書のようになっちゃあわれわれインド人はとても一緒について行けない。また,一緒について行く必要もない,芝居のカラクリをちゃんと般若の大智をもって見すかして,芝居そのものが馬鹿らしくなって初めて,それが人間の一進歩を意味すると私は思うのです。

老子 

なぁに,そんなに深く考えなくったってよい。人間共の芝居は横で拱手傍観[きょうしゅぼうかん]すべきものだが,同時にまた適当に利用すべきものだと思う。やりたい事をやらせておけば,それが見ているもの有利になるのです。つまり世の中という奴は,欧州人とか何とかいったような,しきりに何か騒がなければいられない阿呆共と,それを黙って見ていて適当に利用する利口者とこの二部分から成っている。前者を俗人と呼び,後者を聖人と呼ぶ。本居さん,日本人は聖人だね。

キリスト 

老子さん,あんたはけしからん事をおっしゃる。あんたは,黙って聞いていれば,まるで狸親爺の腹算用みたいな事をおっしゃるではありませんか。孔子さんもそうだが,あなた方には,本当の意味における倫理的認識,道義的信念というものが,一言にして言えば良心というものがないらしい。人生を市場と間違えている。人生を取引所だと思っている。あなた方の根性は重役根性だ。あなたの道教は算盤だ。孟子や論語は「出世術の講義」だ。たとえば,君子は危きに近よらずとはそもそも何事です。なるほど,危きには近寄らない方が身のためかもしれない。けれども,身のためを思うのが道徳か,人のためを思うのが道徳か。どちらです。

ニーチェ 

身のためを思うのが道徳ですよ。

キリスト 

あんたとは口を利きたくない。私は老子さんに言っているのだ。老子さんどうです。

老子 

人のためを思えば,それがいずれ身のためになる,これが本当の道徳だろうね。

ニーチェ 

ちがう,反対だ,身のためを思えばそれがいずれ人のためになる,――

キリスト 

ちがう,身のためになろうとなるまいと,人のためを思う,これが本当の道徳だ。人のためを思う時には,むしろ身のためにならないという事それ自身に感激してやるのだ。一度カントでも読んでごらんなさい。

老子 

だって,どうせ天国へ行けば神様が報酬をくださることになるのでしょう?

キリスト 

それは比喩だ。比喩には心というものがある。比喩の心は何ぞや? それは,『人のためを思ったところで,この世においては何一つ報[むく]いられはしない,おそらくは来世においてすら報[むく]いられはしない――にも拘らず良心の命ずるところは行うべきだ。それが正しいのだ。それを称して善と言うのだ。かくの如き絶望的善を勇猛果敢に行う者が人生に乱立するに及んではじめて人類は人類自身に打ち克つのだ。現世の裁きから出立しては真の道徳はあり得ない,来世の裁きから出立して......即ち換言すればいかなる裁きからも出立せざるところにのみ道徳はあり得るのだ。』――この信念に達するには,良心の声とこの世の利害との間にさしはさまった絶体絶命の危機を内的に体験するだけの心の深みを持つ必要があります。そうでなければ,――いっそのこと,あなたがたみたいな厄介な理屈を言わないで,無反省に盲目に正しい事をする子供のような人間の方が神の意志に適っている。

ニーチェ 

(耳を覆って)もう沢山! ほんとうにもう沢山! その理屈は私にしてみれば,もう,まるでただれた傷に触られるような気のする理屈なんだ! 古い論争はもう繰り返したくない。只一言云いますが,それでは人生をどうしてくれる,それではこの楽しい力強い生きる権利をどうしてくれる! 無反省に盲目に正しい事をする子供は,同時に無反省に盲目にオシッコもすればウンコもするではないか! 無反省に笑うではないか! 盲目に生を楽しむではないか! 喧嘩をするではないか! ハーモニカを吹くではないか! あばれるではないか! そしてこれが即ち神意ではないか! これが Leben[英:life]ではないか! これが正しいのではないか! 力強いほがらかな景気の良い事を正しいとしないでいったい何を正しいとするんだ! 人間が自然に進化することに対して,人間の意志が膨脹拡大する事に対してとやかくケチをつける神は何者だ? やい,神,汝は何者だ!

釈迦 

(溜息をつく)はてさて,困った人たちだなあ。

老子 

(ニヤニヤ笑って)しかし見ようによっては面白いね。

宣長 

(カラカラと笑って)元気があって良いよ。

キリスト 

Er weiß nicht, was er sagt![日:彼は自分が何を言っているか、わかっていない。]

宣長 

しかし,あなたがたはみんな少しずつどうかしているね。わたしには,なぜそんな厄介な問題が人生にあるのだか,皆目わけがわからぬ。あなた方はどうせ唐人や毛唐人の寄合いだから,言う事もなかなか毛色が変わっとる。では最後にわしが大日本帝国の国民精神を紹介して今日の座談会を閉じることにしよう。大日本帝国の国民精神は,『敷島の......』じゃ,良いかね,『敷島の大和心を人問はば,朝日に匂ふ山桜花』じゃ。パッと咲いてパッと散る,つまらん野暮な理屈を言わない,元気旺盛にして同時にアッサリしとる,文化内容だの何だの,そんな事は一切問題にならん,『人生とは何ぞや?』――『朝日に匂ふ山桜花』じゃ。あっさりしとる。淡白にして壮麗じゃ。パッと匂うとる。見る目一杯に匂うとる。ほがらかな事じゃ。これが強い。これが人生じゃ。これが神の意志じゃ。これさえあれば仏教もキリスト教も神も仏も良心も飛行機も,なんにも要らん。今に見とれ,これが世界を征服する。今に見とれ,これが生の肯定と生の否定とを打ってもって一丸として人間意識の頂上に君臨する。ニーチェ君が無我夢中で暗中模索しているところのものは,我々日本人が元っから持っているのじゃ。咲いた桜になぜ駒つなぐ,駒が勇めば花が散る,はコリャコリャじゃ。ぼやぼやしていると支那もシベリアも取っちまうぞ!

ニーチェ 

朝日に匂ふ山桜花か。こいつは面白い。キリストさん,よく聞いておおきになるがよい。味わうべき言ですぞ。

釈迦 

朝日に匂うのも良いが,散ったつもりで匂うていただきたいものですな。

ニーチェ 

もちろんさ。散るなんて事は一緒に中に含まれているんだ。そこがトボケていて面白いんだ。しかし......こいつにはどうも少し......顔まけしたな......

宣長 

ではこれで散会という事にいたします。皆様どうもご苦労さまでした。(終)

 

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