三修社 SANSHUSHA

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【寄稿】関口存男と死の影 

更新日:2019.05.30


 関口存男の人生を語る上で避けて通れないのが“死”である。それはまるでエリザベートに付き纏う黄泉の帝王トートの如く。3人兄弟の真ん中であった存男は明治44年、最愛の姉・廣子 (4月5日)と弟・忍夫(11月8日)を立て続けに失う。存男の母・品子曰く「クズが残った」のだそうだ。クズかどうかは存男の言い分も聞いてみたいところだが、この姉と弟、相当優秀であったことは確かな様だ。これは我が家に残されている3人の「修養日誌」なるものを見比べてみれば一目瞭然。まあ、これは存男の父・存啓による英才教育の賜物と言えなくもない。存啓は寺子屋の息子であり、自身も漢文に優れていたという。

 それはさておき、この姉弟の早過ぎる死がもたらしたのが妻・為子との出会いである。数ヶ月の間に2人の子供を立て続けに亡くし、出来損ない?とは言え、唯一生存している頼みの綱の息子(存男)も東京の幼年学校で寮生活。悲嘆に暮れていた 存啓と品子は、関口家に養子を迎え入れることにします。そこで白羽の矢が立ったのが、彦根で開業していたシーボルトの弟子、蘭方医の大村丹家(裏の顔は勤皇の志士)とその年の離れた後妻の間に生まれた一人娘・為子である。

 為子は両親を早くに亡くし、年の離れた腹違いの兄夫妻に引き取られ暮らしていたが、この兄、父の跡を継いで医者となり、その腕が見込まれて典医に任命され、今まさに上京しようとするその汽車の中で若くして病死してしまう。実は為子には、両親が決めた“生まれた時からの許嫁”がいたそうなのだが、為子が投稿した感想文だか批評だかが新聞に掲載され、それを見た相手先から「そんな子はうちの嫁に相応しくない!」と許嫁を解消されてしまったという。今ならば「優秀なお嬢さんで」などとお世辞の1つも言われそうなものだが、当時は「女の子がそんなことをするなんて!」といった時代である。

 ところが我が先々々々代当主・関口存啓・品子夫妻、長女の廣子にも読み書きその他諸々、学問の方は抜け目なく、考えられる限りの教育を施したものの、花嫁教育の方はと言えば・・・お味噌汁1つまともに作れなかったそうである。読み書きには長けているが、家庭のことは何一つ出来ない大女・・・今ならば、頭が良くて高身長でスタイルも抜群!となりそうなものだが・・・嫁ぎ先では相当辛い思いをしたといいます。そのせいかどうかは分かりませんが、26歳という若さで亡くなってしまいます。

 まあ、それは兎も角、こんな先進的な価値観を有する存啓・品子夫妻故、渡りに船とばかりに喜んで為子を養子に迎え入れます。20歳そこそこの多感な青年・関口存男にとっては青天の霹靂。ある日突然、1つ年下の可愛い妹が出来たのです。これは夢か幻か。この年頃の正常な男子にとっては定番中の定番、ベストオブ妄想と言っても過言ではないシチュエーションが現実に・・・あだち充の世界を地で行く目眩く世界?が展開されようという訳ですから、そりゃもう、たまったもんじゃありません。そう、「みゆき」ならぬ「ためこ」です。その後の存男がしでかしたストーカーまがいの数々の行いは『関口存男の生涯と業績』(三修社刊)収録の堀川花さんの証言でお楽しみ下さい。

 さて、そんなこんなで駆け落ち同然、東京に出てきた存男と為子ですが、間もなく子供が生まれます。それが長女・充子、私の祖母です。このころの存男は大学生。芝居に明け暮れ、その他の時間は読書三昧。仕送りで購入したと思われる洋書を好奇心一杯で我が物にしていきます。本人の気持ちの中は兎も角、外から見れば、真に羨ましい贅沢な時間を過ごしていた模様。その分、苦労したのが幼さのまだ残る妻・為子。生活の足しにとレース編みの内職に精を出す毎日。そして翌々年 には長男・存哉が生まれ、その後、立て続きに淑子、まゆみ、存彦、昭子が生まれます。

 当時の存男は気性の激しい男だったといいます。私が中学生の時に長男・存哉から聞いた話によると「姉さん(長女・充子)は特別だった。僕は可愛がられなかった」の由。私が「そんなことは・・・」と言うと「お爺ちゃん(存男)が書いた「充子の日誌」っていうのが落合の家にある筈だから、それを見れば分かるけど、あの溺愛ぶりは特別。あんなのあれだけ兄弟が居ても他の誰にも書いてないよ」と話していたのを思い出します。もちろん、初めての子だからというのもあると思いますが・・・今でも、初めての子は他の兄弟姉妹に比べ、赤ちゃんの時の写真が多いとよく聞きます。

 それはさておき、日誌が残されているか否かで可愛がられているか否かが決まるものではありません。ですが、そう思えてしまうぐらいに当時の存男は厳しい父親だった様です。そんな時に小学校から日本女子大の付属に通い、除菌の為にいつもアルコールを携帯し、何かといえば手を拭いていた充子は兄弟から見てもちょっと特別に思えたのかもしれません。ちなみに他の兄弟たちは近所の公立、関口家御用達?の落合第1小学校(私も卒業生です)に通いました。次男の存彦の証言によれば「姉さん(長女・充子)は、僕なんかがキャッチボールして真っ黒になってグローブとボールを抱えて帰って来ると、アッチ行けって調子で、汚しそうな顔をしてアルコールで手なんか拭くんだよ」の由。もちろんこれは大人になってからの、ふざけながらの些か誇張した表現ではある様だが、当時の関口家の日常、私立の女子中学に通う姉と公立小学校に通う年の離れた弟との闘争?の日々を微笑ましく物語るエピソードなのかもしれません。

 こうした日常に大きく影を落としたのが昭子の死でした。昭子は頭の良い子だったといいます。ですが生まれながらに足に障害があり、12歳で他界しました。この頃の関口家には世間一般、御多分に洩れず嫁姑問題 が存在した様で、姑の言いつけは妊娠中の身重の為子に相当な無理を強いたといいます。家事の最中、為子を襲った転倒が昭子の障害の原因と伝えられています。そして、この昭子の死を境に存男の性格は大きく変化したといいます。それまでのストイックな生活から一変、町内会の集まりに参加する様になったりもしたそうです。昭子の死の前日、死の淵の昭子を抱きしめる存男の写真には、まるで存男が“気性の激しいストイックな存男”を脱ぎ捨てる瞬間が収められている様に思えるのは私だけでしょうか。

 この昭子の枕元には、当時、夫の転勤により台湾で暮らしていた“大好きな充子お姉ちゃん”の写真が置かれていました。昭子の死に際し、存男が充子の夫に宛てた手紙が残されています。そこには如何に充子にショックを与えないで昭子の死を伝えるべきかが長々と書き記されています。


 「充子は一番昭子を可愛がっていましたし、少し感情の激しい方ですから、私たちと一緒に介抱したりしていたら、きっと神経で参ったろうと思います。それ故、父は、充子の写真を昭子の枕許において、充子の分を一身に引請けて介抱致しました。」(関口, 1938) 


 充子は昭子をとても可愛がり、それをよく知っていた存男は、昭子の死をどの様に充子に知らせるべきか相当頭を悩ませた様です。


 「一週間以上看病しました。私も一生はじめて全く書斎をはなれて昭子のそばに付き切りでした。昭子は此の父に、一生初めての奉仕をさせました。一生初めての涙を流させています。母は勿論の事ですが、此の父には特に昭子は深く根をおろしていたのです。私は全く精神的中心を失った気がします。しかし、こんな事はもう申しますまい。ただ一つ気がかりなのは充子の苦しみです。」(関口, 1938) 


 昭子は深く根をおろしていたのです・・・どうやら昭子の存在は、存男が愛して止まない演劇の世界(厳密には演出の世界)と距離をおき、ドイツ語の世界に深く根をおろすことになった理由、少なくともその要因の一つと考えて間違いなさそうです。この時期、存男が数多くの本を執筆したのには昭子の存在が大きく関わっていたと言えましょう。


 「私は昭子に金がかかるので、母にすっかりまかせて仕事に一生懸命になっていました。せめて昭子が、たとえ動けなくても、最後まで両親のそばで、苦しい世間を知らずに、家庭だけで幸福に一生を送ってくれるように、そのための資金をいくらかでも儲け、もし私が先に死んだら色んな本の印税を掻き集めれば月に百円ぐらいは出来るようにと、それを目ざして一生懸命に働いていたのでした。」(関口, 1938) 


 存男はこの手紙の中で、かつて誓った “自らの死と向き合う衝撃的な覚悟” を告白しています。


 「私は此の児(昭子)が死ぬまで此の児のために働いて働いて働き抜いてやる。(中略)せめて此の児が死ぬまで私と一緒に暮せるように金をこさえ、収入の口を開いておこう。そして、私より先に死んでくれればよし、もしそうでなかったら、私が死ぬ前に此の児を殺して死のう。」(関口, 1938) 


 「 “おまえ(昭子)が死ぬ時には、私は三日ほど焼け酒を飲んで、もし他の子供がみんな一本立ちになっていたら、私も自殺しよう。” 此の誓いは、両方とも果たせませんでした。酒はあんまり好きではなくなっているので、別に飲みたくもないし、また、他の子供がまだいるから、自殺する訳には行きません。」(関口, 1938) 


 昭子おばちゃんは、我が家の仏壇で少女の姿のままいつもこちらを見つめていました。それが私にとっての大叔母・昭子です。子供の頃から何だかファミリーの一人の様な気がしていました。そしてその命日には、仏壇にお花や彼女が好きだったお菓子が供えられ、充子は生涯、お経を欠かすことがありませんでした。     

 私は宗教心の「し」の字も無い様な不謹慎な人間ですが、ひと月に1度の墓参りは欠かしません。これは祖母との約束の様な気がしています。暗黙の了解というヤツです。そして毎月、我がファミリーが眠る墓の前で“関口の家をこれからも守って行く”と心に誓うのです。こう書いてみると、我ながら些か芝居がかっているなあと思わないでもありませんが、まあ謂わば、俗にまみれた人間のちょっとした禊といった趣でしょうか。

 それはさておき、死があればまた生も巡って来る訳であります。昭子の死から数年後、充子に長女が生まれます。敬子です。この敬子、見た目が昭子そっくりで、写真ではパッと見、区別出来ません。写真整理に於いては、立っているか?否か?と足元を見て区別します。幼少の頃の2人はそれほど似ているのです。存男は敬子を溺愛したといいます。敬子の妹、久美子(私の母)によれば「お姉ちゃんばっかり!」と嫉妬していた程だといいます。存男の著書「素人演劇の実際」に書かれている“世田谷の幼稚園で学芸会に出る孫”はこの敬子のことです。敬子は石井みどりの下でバレエを学び、ステージにも度々出演しました。

 その後、幸か不幸か我が祖母・充子は離婚。そして落合は目白文化村の関口家で存男・為子夫妻、充子・敬子・久美子の母親とその姉妹は一つ屋根の下で暮らすこととなりました。この頃にはまだ次男の存彦も実家に暮らしておりましたので一気に6人家族となりました。母・久美子によれば“とても楽しい時期”だったといいます。

 その後、存彦は結婚して実家を出て行きます。戦争未亡人となった次女・淑子とその2人の子供も嫁ぎ先の大分から東京に戻り、文化村の家を増築し、そこで暮らし始めます。4畳半の居間と8畳の存男の書斎を中心とする母屋では存男、為子、充子、敬子、久美子、相変わらず5人の暮らしが続いておりましたが、黄泉の帝王トート閣下は存男を放っておいてはくれません。昭子の生まれ変わりと溺愛していた孫の敬子が突然15歳でこの世を去ります。

 原因は今でも分かりません。突然苦しがり、病院に運ばれた際には時すでに遅し。解剖を勧める医師に「年頃の子にメスを入れるなんて可哀想だ。そんなことをしたって敬子が戻って来る訳でも無い」と存男は拒んだといいます。そして、自身の死のその日まで、敬子のお骨を枕元に置いて寝たといいます。妹、すなわち我が母・久美子は当時、体が弱く、姉の葬式に並ぶ人たちが「お姉ちゃんの方なんだ、妹さんだとばかり・・・」と言っているのを聞き、「なんだか自分が生きてちゃ悪いみたい」に聞こえたといいます。

 ドラマの様に劇的な存男の人生のクライマックスはまだまだ続きます。今度は敬子の妹・久美子が敗血症にかかり死の淵を彷徨います。存男は久美子の枕元に付き添い「わしが可愛がるとみんな死んでしまう。わしはもう可愛がらん!」と誰に言うでもなく一人で話したかと思うと、突然ワンワンと大きな声を上げて泣いたといいます。そして、久美子が死の淵を彷徨っていたまさにその時、追い討ちをかける様に今度は妻の為子が亡くなります。敬子の死から3年後のことでした。我が一族には珍しくガンでした。ウチの家系は血管系で亡くなる率が高いのです・・・くれぐれも私の死で賭けをするのだけはお止め下さい。

 さて、存男の祈りが通じたのか、その後、久美子は奇跡的に一命を取り止め、こうして私がここにいるという訳であります。

 またこれから楽しい生活が始まるかと思えた矢先・・・主語の欠如・・・今度は存男自身が亡くなってしまいます。


辞世の句 「ながながと わしゃ くだらぬ夢をみた」


 この句は“くだらぬ”の箇所にワザと二重線が上書きされ、その横に“オモシロイ”と書き足されています。これは、人生にはちょっとしたお愛想も必要だという意味だそうです。しかしこうすることで二重線の下から垣間見られる“くだらぬ“が際立つ仕掛けとも解釈出来るのです。本当にお愛想が大切ならば、最初から”楽しい“と書けばいい訳で、「敢えてそうしてくれ!」としたところに存男の反骨精神、その本質が在るのでは無いでしょうか。すなわち、存在の男=存男が在るのです。


                 


                     2019年1月22日

目白文化村の書斎にて 関口 純




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