三修社 SANSHUSHA

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第3弾 関口存男と社会活動

更新日:2019.04.22



昭和20年3月、戦時下最後の強制疎開によって、東京から多くの学術出版関係者が妻籠に疎開した。この土地ゆかりの社会活動家 勝野金政によるところが多いと言われている。

勝野と、社会学者であり日光書院の発行者でもある米林富男が出会い、この二人に勧められ、関口存男は妻籠に赴くことになる。(関口は日光書院の著者であった。)

妻籠に疎開した人たちの顔ぶれは、荒木茂雄(関口の教え子。ドイツ語学者)、桜井庄太郎(社会教育学者)、木下孝則・義謙 兄弟(画家)、桐島龍太郎(吾妻書房社長。三菱財閥重役)、下山家(元国鉄総裁の一族)ら。



妻籠での家族写真


戦後、多くは引き上げていったが、関口存男と米林富男は、昭和23年暮れまで妻籠に残り、その頃に始まった公民館運動を盛り上げ、民主化運動を進めていった。米林は村の実態調査を、関口は家を「公民館文化部」とし、初級英語講座などさまざまな学習講座、関口と米林を訪ねてやってくる学者や演劇関係者による講座の開催、演劇グループによる上演などを行った。


妻籠時代の先生  勝野時雄
 (中略)当時お先走りの信州人の風潮の中に、新しい村づくりの運動として、公民館設置の動きがあった。私がそんな動向に惑わされて、先生の前に改めて座るようになったのはその年の暮頃だった。その時先生が先ず私に教えたことは、「できるだけ大きい看板を、できるだけ目立つところへかけろ」と言うことだった。私は内心不服とも不安ともつかない思いで、とも角言われる通り、部落の中央に一応の威容をもって構えている青年倶楽部の正面玄関の柱に「妻籠公民館」という看板を掲げたものだ。敗戦直後のドサクサに紛れた正に火事場ドロボウ的な行為に違いない。
(中略)
すでに名監督の演出に踊らされる一団の大根役者とでも言おうか、まず始めに飛び出したお芝居は「村長さんはどんな人を選んだらよいか」という公聴会を開くということであった。先生の脚本による事は申す迄も無い。古い宿場部落には、いまだに階層的な動かし難い古い秩序が残っていて、このようなことを企む事は、この土地の者にとっては想像以上に容易ならないことである。やがて当日がやってきて、正面議長席に収まっているのは当の関口先生、机の上には小学校で使う大きな振鈴が置かれている。まさに自作自演を地で行く姿である。
 老若男女を問わず発言は自由であること、一部の人の独占的な発言は議長の権限で、ある程度制限すること(その際はこの振鈴で注意を喚起する)。かつてこの村の人たちにこんな機会を持ち得たことは唯の一度だってあったことはない。そしてなんと三十代迄の若い人が最も望ましいと言う結論が飛び出してしまったのである。このことは旧来の村の指導者層の先生に対する憤激は勿論であったが、それよりも若い諸君に与えた自信と勇気は計り知れないものがあった。「澱んだ盥の水は誰かがかき廻さないと腐ってしまう」先生が繰り返し言われた忘れ難い言葉の一つである。これを契機として、村政について誰もが参加できる懇談会が生まれ、今迄の不明朗な問題は片端から取り上げられ、具体的に処理されるようになった。先生を中心とする演劇サークル、炉端を教室とする語学教室等々が生まれ、これにつれて村中の全ての機能が生生と奔流のように動き始めたのである。

『関口存男の生涯と業績』(三修社刊)より抜粋


妻籠の若者たち


当地の若者たちはこういった演劇活動や勉強会を通じて社会問題の本質の捉え方、自己表現方法などを学んでいった。

「争え、但し怒るべからず」

これは関口存男による戯曲のタイトルだ。

まさにこれを若い人たちに伝えようとしたのだろう。

関口存男が残したという、とことん話し合う、でも腹を立ててはいけない、「論じて激せず」という言葉がその後も語り伝えられていたそうである。

関口存男らを指導者として公民館運動が活発化し、昭和21年にこの地に設立された妻籠公民館は、戦後初の全国公民館表彰を受けることになる。この時の青年たちが1960年代に民俗資料の収集をしたことが妻籠宿の保存運動につながり、さらには全国初の街並み保存運動へと展開していったのだ。

妻籠は現在、海外からの観光客も多い。昭和20年代に蒔かれた種が実を結んでいる。


「存在の男」展 第3弾展示より一部を掲載しています。


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