三修社 SANSHUSHA

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関口存男「争え、但し怒るべからず」

更新日:2019.07.08

「存在の男」展、第3弾「関口存男と社会活動」でご紹介した戯曲

「争え、但し怒るべからず」を、期間限定で公開します。


終戦間近に長野県妻籠(現在の南木曾町)に疎開した関口存男は戦後もそこに滞在しました。

そして若い世代の人たちのために創作し、自ら演技指導をし、上演したのがこの作品です。


戦中から戦後へという激動の時代に、関口存男が伝えようとした新しい価値観とは。

*著作集未収録の作品です。編集部で、漢字、仮名遣いを現代表記に改め、傍点を太字に変更しています。

 

「存在の男」展についてはこちらをご覧ください

 

公民館のための芝居

争え、但し怒るべからず

関口存男

 

登場人物

中村先生(男)

柴田先生(女)

父兄の一人(男)

女生徒七名以上

 

舞台は校庭でも街頭でも、その他どこでもよい。装置は一切不要。

開幕前、女生徒は七名とも舞台の左側前端の一ヵ所にかたまっている。幕をあける数秒前、七名のうち、女一と女七を除く他の五名はいっせいにガヤガヤとどなりはじめる。(このガヤガヤのせりふは結局なんでもよいわけだが、やはり一人一人のせりふをちゃんときめて暗記させる。長さは、一人あて、二百字詰原稿用紙一枚より少し長いぐらいが適当。文句は、相手を批難する意味のことで、はげしくどなりたてるのに好都合な文句なら何でもよい。結局見物に意味はわからないのであるから、中味に苦労する必要はない妻籠村の人たちにやらせた時には五人のうちの一人は、せりふをつくるのが邪魔くさかったので、イロハニホヘトとどなることにしてもらったが、それで何のさしつかえもなかった。ただ、いちばん最後のところだけは、一人二人のせりふが残ってきこえることになるから、相手を詰問している意味にきこえるように上手にしくむこと。)

このいっせいのガヤガヤがはじまって、みんなが一通りじぶんの受持の分をいいおわったころに幕をあける。

幕があくと、女一は、それまでは腕を組んで五人のいい分をきいているが、たちまちきびすをかえして、舞台を大きく横切りつつ、最右端奥手にむかって堂々と歩く。逃げるというのではなく、うるさいという表現である。

同時に相手の五人は、ガヤガヤせりふをもう一度はじめからどなりなおしながら女一の後を追い、女一を最右端奥手に追いつめる。(女七だけが左端にとどまるわけ)。追い詰められた女一はまたきびすをかえして、五人の包囲を突破して前に出で、こんどは舞台の中央前端にむかって逃げ、ここで五人の方をふりかえって、敢然腕を組んだままにらみつけてまつ。五人も、またきびすをかえして女一にせまり、半円形に包囲する。包囲して二三秒四五秒たつとガヤガヤせりふの二回目が終わるはずであるから、ガヤガヤはそれでおしまいになる。五人は、自分のせりふのおしまいごろには、いずれも女一の胸をおしたり、腕をとったり、その他多少荒々しい動作をする。(足でトンと一回床を踏むなど、一人一人の動作に工夫をすること)

 

女一 (ガヤガヤが終わると二秒の沈黙をおいていう)それがどうしていけないんですか?

女二・三・四・五・六 (すぐいっせいに例のガヤガヤせりふをもう一度くりかえす。こんどは二回めの時よりもずっとはげしく、胸を突いたり、腕をとったり、その他の威脅的動作を数多く入れる)

女七 (今までは舞台左側で傍観しているが、この時、ガヤガヤせりふの途中でみんなに近づいて、女一とそのほかの生徒との間に割って入り、しきりに仲裁のしぐさ。同時に『まあまあ』とか『ちょっと』とか『あなた!』とかを何度もくりかえすこと。さてガヤガヤが終わるころに次のせりふをいいはじめる)だめですよそんなにみんなでガヤガヤガヤガヤいったって! なんのことをいっているのかちっともわかりゃしないわ。じゃあ私がみなさんに代わっていいますから、みなさんはしばらくだまってきいていらっしゃい。(女一の方をむいて、しばらくにらんだのち、おちついた鋭い口調で)あなたは小山さんの悪口をいたでしょう!

女一 (すました顔をして相手をにらんでいるが、やがてくるりとうしろをむいて二三歩女七の前をはなれ、また同一の方をむいて止まり、腕を組み、一同をにらみわたしたのち)いいました。

女二・三・四・五 (たちまちガヤガヤせりふをどなり立てはじめる。こんどは女七に制せられるとすぐ中止する)

女七 (五人を制したのち、また女一をにらむ)

女一 いうのはたしかにいいました。(それから女五をにらんで)岡崎さんとごいしょにね。

女五 (あきれて)あらッ!

女一 そしたら、岡崎さんもおしまいころには私といしょになてさかんに小山さんの悪口をおしゃいましたわ。

女五 (一歩はげしく女一に近づいて)うそです! それはうそです!

女二・三・四・六・七 (おたがいに顔を見あわせる)

女二 (グループを横へどきながら)まあ! ずいぶんだこと!

女三 (同じ動き)ひどいわ!

女五 (はげしく女二の方をむいて)じゃあ、あなたがたは、わたしも町田さんの同類だとおっしゃるの?

女四 (グループをはなれながら、ゆっくりした口調で)同類のようでもあり、同類でないようでもなし……なんだかわからないわ……。

女六 (女四の方へ近づきつつ、ささやき声で)あなた、そんなことをいうの、およしなさいってば!

女五 (女四の方をむいて)まあ……

女一 (思わずクスッと笑う)

女五 (くるりと女一の方へふりかえり)なにがおかしいの? あなたは失礼な方ね!(といいさま右手をあげて女一に打ちをくわせようとする)

柴田先生 (あぶないところでその手をおさえる。しばらく前から登場し、この時女五と女一とのすぐうしろに立っていたのである)女のくせに何です!(しばらく顔をにらんだのち、手をはなし、こんどは一同に向かって)みなさん、つまらないことで喧嘩をしてはいけません。みなさんは将来りっぱな公民として文化国日本を背負って立つ人たちでしょう? 文化国の市民は喧嘩なんぞすべきものではないでしょう?

中村先生 (舞台うらから、大きな声で、時代物がかったこわいろで景気よくどなる)意義あーーり。

 

この声をきくと一同はいっせいに左手奥の方を見る。中村先生が登場すると同時に、女一と女五だけは現位置にとまり、他は全部舞台全面に疎開せしめる。その各自の位置には細心の注意をはらうこと。

 

中村先生 (進み出でながら、旧劇せりふで)あいやしばらく待った……(口調を改めて)それはまあ冗談ですがね。しかし柴田さん、僕は、そのあなたのご意見には非常に反対ですな。僕は、文化国の市民たる者は大いに喧嘩をしなければだめだと思います。

女五 (進み出て)先生、わたしもそう思います。

中村先生 (皮肉に女五を見ながら)喧嘩というのは人をぶんなぐることじゃないよ君。町田さんにあやまりたまえ。

女五 (ちょっとためらったのち、女一に向かってちょっと頭をさげて)ごめんなさい。

中村先生 (女一の頭をなで)怒っちゃいけないよ。(柴田先生の方をむく)喧嘩というのは、ぶったり叩いたりすることではありません。怒ることではありません。争うことです! 理をもって争うことです!

柴田先生 でも、子供にそんなことができるでしようか?

中村先生 できますとも! それができないようなら、われわれはいたい何のために教育をするんですか。(演舌の姿勢をとる。生徒一同に向かって)諸君、大いに喧嘩をしたまえ! 喧嘩するやつは正直だ。喧嘩をしないやつは不正直だ。ただし決して怒るべからず。怒ったら負けだ。怒るのは負けた証拠だ。負けるとくやしいから怒る。勝てば人間は怒るものではない。だから、喧嘩というやつはその場ではちょっとどちらの勝ちだかわからないこともあるが、その後を見ているとよくわかる。腹を立てたり、怨んだり、蔭でブツブツいったり、ふてたり、むくれたり、仕返しをしたりするやつがいたら、それが即ち負けた方だ。――諸君、大いに喧嘩をしたまえ! 喧嘩の無い社会を造ろうなどとするから、くだらない人間ばかりできてしまうんだ。堂々と喧嘩のできる社会を造れば人間はいやでも応でも進歩する! えらくなる!

柴田先生 でも……女はそれではいけないでしょう? それでは日本の女性のしとやかな美しいところが無くなってしまうのではないでしょうか?

中村先生 (まず歩きはじめる、そして、頭をかきながら)そうですなあ……(苦笑して)あるいはマア多少ね。多少はなくなるでしょう。ここはちょっと微妙な問題ですな。それはなるほど、男性の立場からいえば、おもちゃにするには、それはなるほど扱いにくいたくましい女性よりは、『しとやかな大和撫子』の方が、手ごろでつごうがいいかもしれませんな。しかし、ご本人のためには、どんなもんですかな。まあ、大和撫子の使命は、大体果たされたとみてよいじゃないでしょうか。大和撫子はつまり、昭和二十年八月十五日を以て玉砕したわけです。彼女はりっぱにその本分をつくしました。しかし今はすでに亡き人です。南無阿弥陀仏! アーメン! 喝! それにいったい、そもそもです。そもそも日本婦人らしくなろうなどと思って日本婦人らしくなれるものではありませんよ。それよりむしろ『人間として』りっぱになれば、それが一番よい日本婦人ではないでしょうか? 撫子もけっこうですが、欲をいえばバラのようになっていただきたいものですな。パッと美しくて、匂いもあれば刺もあるバラの花のようになっていただこうじゃありませんか。――柴田さんどうです? 怒ったんですか?

柴田先生 怒ると負けでしょ?

中村先生 (笑って)そういうわけですな。

柴田先生 じゃあ、あたし、くやしいから怒らないわ。

中村先生 くやしいから怒らない! なァるほど! こいつは名言だ。そうです! それが民主主義社会のほがらかなたくましい道徳です。では何とかしてあなたを怒らして見せようかな?(生徒一同にむかって)諸君! 諸君はスポーツというものを知っているだろう。野球というものを知っているか?

生徒全部 知ってまァす!

中村先生 バレーボールを知ってるか?

生徒全部 知ってまァす!

中村先生 よろしい! 文化国の社会生活はいわば一種のスポーツだ。スポーツにはすべてルールというものがある。規則というものがある。規則は絶対に守らなければならない。規則を守りつつ大いに相手をやっつけ、相手をやっつけつつしかも絶対に規則を守るんだ。またその、絶対に規則を守るところが争いの面白さであり、大いに争うところが規則の面白さなんだ。スポーツだってそうだろう。もしスポーツが規則もなんにもないでたらめの喧嘩だったら何が面白い! バットを両手につかんで立ったバッターが、いきなりうしろを向いてキャッチャーをぽかーんとなぐりたおし、あわてて飛んで来たピッチャーと取っ組みあいをはじめたら……どうだおもしろいか?

生徒全部 (笑う)

中村先生 そんな野球ってあったもんじゃない。それは野球でなくて蛮球だ。(女五に)あなたはつまり蛮球をやったわけだ。もう一度謝罪をしたまえ。

女五 (女一に)どうもすみませんでした。

中村先生 要するに、規則を破った者は負けだ。しかし、規則さえ犯さなかったら勝ったといえるだろうか? 単に規則だけまもっていれば上手になるだろうか? 勝つにはどうしたらよいか! 上手になるにはどうしたらよいか!

女三 うんと練習しなければなりません!

中村先生 そうだ!

女四 うんと勝負をしなければなりません!

中村先生 その通り! 公民生活の理想もまたかくのごとし! 争うことがあたら大いに争う。ただし決して怒らない。あくまでも争い、あくまでも怒らない――これが即ち民主主義の世界だ。――争うことがないなんてのは嘘だ。神様の世界ではなくて人間の世界なんだから、どうせ何かしょちゅうゴタゴタがあるはずだ。ゴタゴタのない社会なんてのは、それはよっぽど勢いの弱い不健全な社会だ。健全な社会なら、どいつもこいつも勢がよくてピンピンはねるから、争い種はいくらだってあるはずだ。また、人間というやつは本当に勢よく争いさえすれば、決して怒るものではない。真に争いだしたら、怒るなんてのんきな暇があるものか。争うべきことを徹底的に争い抜くだけのいくじのない神経衰弱患者が、怒ったりくさったり酸えたりむくれたりするんだ! 諸君の村を見たまえ。誰がどんなことをしていたって、誰も何ともいわない。いわないのがよいことのように思っている。考えてみれば、自分も卑怯だし、人もみんな卑怯だから、卑怯を利口と呼ぶことに申しあわせてしまったんだね。なにしろ卑怯者の組合のことだから、何を申しあわせるかしれたものじゃない。だから、ちょっとみると、非常に仲がよさそうに見える。都会のばか野郎にいわせたら、諄朴だとか何とかいって、どんでもない見当外れの形容をするだろう。ところが、ひとたびその裏面をのぞいて見たらどうだ!人々の心の中はどうだ! 人々の心の中は諄朴などとはおよそ縁の遠い心の中だ! みんな怒ってる。みんなくさってる。みんなブツブツいってる。――なぜそんなに怒っているのか? なぜそんなにくさっているのか?

女一・二・三 争わないからです!

女四・五・六・七 喧嘩をしないからです!

中村先生 その通り! 争わないからだ! 喧嘩をしないからだ!そんな、怒ってふてくさってひねくれて酸えて醗酵して沈殿して動きのつかなくなった人間同志の関係はじゅうりんしちまえ! そんなくさった諄朴な美風はドンドンぶっこわしちゃえ! 堂々と争うことのできないような親密な空気は吹ッとばしちゃえ! 部屋の空気はにごっている。窓をひらいて北風を入れろ! 弱虫どもは風をひいて死んでしまえ!(舞台中央前端に立って見物一同に)諸君! 大いに喧嘩をしようではありませんか! あくまでも争おうではありませんか! 争いもせず喧嘩もしないでいて、自分もくさり世間をもくさらしている現在の大多數の日本人よ! ボヤボヤしていると『日本列島の土人』になってしまいますぞ! (柴田先生に)どうです! これでもまた怒りませんか?

柴田先生 怒りませんわ。

中村先生 ほんとうに怒っていないんですね?

柴田先生 ほんとうに怒っていません。

中村先生 (頭をかきながら)じゃあまだ僕の勝ちじゃないかな……大和撫子ッてやつはすぐ怒るものだけど……

柴田先生 お説はたいへん結構だと思います。けれども、しかし……学校の先生が大いに喧嘩をしろといたなんてことが父兄の耳に伝わると、あるいは多少文句が出るかもしれませんよ。

中村先生 父兄ですか! 父兄はどうせ何かいてますよ。父兄の文句なんか気にした日には碌な教育はできませんよ。父兄なんてものは、半分通りは大ばか野郎の寄合なんだから……

父兄の一人 中村先生! 私は父兄の一人ですがね。

中村先生 (気をつけの姿勢をして)はッ! (柴田先生に)ほら、ね?(中村先生の位置が柴田先生から遠い時には、このセリフは止めること)

父兄の一人 お説はたいへん結構です。大和撫子論はすこしどうかと思うが、怒らずに争えというご趣旨に対しては私も賛成です。しかしですな。こんなに大勢人の集まている席上で、父兄の半分は大ばか野郎だなどといわれては私共の立つ瀬がない。これは責任ある教育者として明らかに失言だろうと思う。そうでしよう。

中村先生 (頭をかいて)そうですなあ……多少まあ……

父兄の一人 じゃあ早速みなさんの前でとり消してください!

中村先生 はッ! (威儀を正して)これはどうも失礼いたしました、ではとり消します。(見物の方を向いて)では、只今の『父兄の半分は大ばか野郎である』という失言はこれをとりけしまして、『父兄の半分は大ばか野郎に非ず』ということに訂正させていただきます。終わりッ! (生徒に向かって)喧嘩始めえ!

生徒全部 (女二・三・四・五・六・七は待ていましたとばかり女一を包囲して、胸を突いたり腕をとてゆさぶたりしながらもう一度最初と同じガヤガヤせりふをどなる)

 

ガヤガヤをきかせながら幕。

 

後記。――この脚本は妻籠公民館において数回上演したものです。各方面からのご要求に応じてこの台本のコピーを同公民館から発送したそうですが、しらべてみると館員の手ちがいのため、私が廃棄していた旧案の方をお届けしたことが判明しましたから、ここに改めて正台本を発表すると同時に、長野、新潟、静岡、山梨四県の各公民館関係の方々に対しては、妻籠公民館に代わて手ちがいを謝します。

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底本「教育と社会」54-59ページ

昭和二十三年九月一日発行

社会教育連合会編集

印刷局発行

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